風になったアブラハム 第9章 雅晴の決断

第9章 雅晴の決断 昭和48年(1973年)

1972年を一年間FⅬ500で戦い抜いた雅晴は、いよいよヨーロパF3挑戦の準備をしていた。ライバルの裕はすでに1971年のグランチャン最終戦を優勝してからCAN-AMを卒業し、1972年からはF1を視野に入れたヨーロッパF2フル参戦をこなし、日本でのレースは一切していなかった。裕は由美子とともにロンドンを本拠地にしてヨーロッパF2戦14戦とノンタイトル戦3戦、合計17戦をすべてフルエントリーし戦い抜いていた。これは単純計算するとヨーロッパ全土を舞台にしておよそ3週間毎に1レースするというローテーションだ。更に1973年度のシーズンはヨーロッパF2を14戦フル参戦とノンタイトル戦には出場せず、代わりに日本でのグランチャン5戦すべてに参戦するという、およそ2週間で1レースするという超過密スケジュールを正式表明していた。雅晴の意志も1973年のシーズンはヨーロッパF3で戦うとすでに決まっていた。そのための下準備も以前から少しづつ整えていた。そんな折に旧知の先輩である田中弘(ひろむ)が主宰するヒーローズ・レーシング

チームから「田中弘、黒沢元治(もとはる、通称がんさん)につぐ第三のドライバーとして来シーズンからうちに来ないか?」と誘われた。何事も常に的確に、素早く決断する雅晴もさすがにこの判断にはかなり迷った。一度はF3参戦を決めた雅晴だが、「ヒロレーシングに来い」と、いうことは3人一緒に日本での最高峰レース、日本グランプリチャンピオンシップ(グランチャン)に臨むということを意味していた。このグランチャンに一年間フル参戦できるという魅力も雅晴にとって捨てがたいものであった。(もう一年だけ日本でグランチャンに挑戦してみてもいいかな・・)(そのあとF3にトライして25歳になった時にF1の背中が具体的に見えてきたら、親父もすぐにホテルを継げとは言わないだろう・・)この頃には中野雅晴という名前は「美しき若手有望レーサー」として世間一般にも広く知れ渡っていた。自然の流れとして北沢バルブやそのグループが経営するホテルでも雅晴の知名度を利用して集客のための宣伝を度々(たびたび)打つようになっていた。ある意味、北沢グループ内でも雅晴を広告塔の一つとして利用していたから、雅晴のプロレーサーとしての存在価値を必然的に認めざるをえないようになっていた。今まで単なる息子の道楽としてしか見ていなかったモーターレース界において、

雅晴はすでに職業レーサーとしての地位をしっかりと確立し、それに見合う充分な収入も稼ぐようになっていた。こうなると中野家においても「昔した約束なんだから25歳になったらすぐレーサーを辞めて家業のホテルを継げ」とはかなり言いにくい状況になっていた。最終的に日本の景気が以前より急激に上向きになり、日本のレース界もそれに伴いかなり活気が出てきたことが雅晴の最後の背中を押した。熟慮を重ねた結果、1973年はヨーロッパF3参戦を見送り、日本のグランチャンレース一本に専念する方向に転換することとした。また当時の自他ともに認める日本ナンバーワン・ドライバーの黒沢元治とチームメートになれるということも雅晴を強く惹きつけた。しかし、この土壇場での急な方向転換の決断が翌年の11月に訪れる悲劇に繋(つな)がることになるとはこの時の雅晴は夢にも思っていなかった。・・・翌昭和48年1月半ばの富士サーキット。真冬の富士は凍てつくような寒さだった。「中野君、最近やけに調子よさそうだね」3月18日のグランチャン第1戦を目標にして常に実戦さながらの練習を終え、ピットに戻って来た雅晴に田中弘(ひろむ)が明るく声をかけてきた。ヘルメットを脱いだ雅晴は汗びっしょりで頬を赤く上気させていた。頭からは外の冷気に反応してうっすらと湯気が上がっていた。雅晴が今乗っているのは二年前に裕が優勝したグランチャン最終戦の時に田中が乗っていたシェブロンだ。この3年落ちのシェブロンを雅晴は体の一部になるほど何十回も走り、完全に手の内に入れていた。相変らずすぐ油圧が低下し、水温が上昇するという欠点をいまだに抱えていたが、その欠点もうまくだましだまし乗りこなす技術(コツ)も身に

付けていた。「弘(ひろむ)さん、相変わらず油圧は低いですが、あとは問題ないですよ。ストレートの伸びもかなりいいです」「なんか、中野君が次のグランチャンのうちの隠し玉になりそうだな。僕も元(がん)さんもニューマシンだからまだ馴染めてないもの。元さんなんか、まだセッティングにかなり苦しんでいるみたいよ」今年から田中弘(ヒロム)はシェブロンを雅晴に譲り、ニューマシンのマーチBMW735に乗り換えていた。黒沢も同じくニューマシンのマーチZを与えられた。まさに第1ドライバー、第2ドライバー、第3ドライバーの順番にヒロ・レーシング手持ちの高性能マシンが付与されたものだった。雅晴も当然自らがサード・ドライバーであることを自覚していたので、そのことは何とも思わなかった。逆に雅晴は3年落ちのシェブロンの欠点と長所を把握するまでしっかりと走り込み、その癖をすべて頭に叩き込んでいた。

3月18日、快晴の中で富士グランチャン第一戦の幕が落とされた。予選の順位は1位生沢徹(てつ)のシグマ、2位木倉義文(きくらよしぶみ)のローラ、3位見崎清志(けんざききよし)のローラ、4位鮒子田寛(ふしだひろし)のシェブロン、5位黒沢元治のマーチ、6位永松邦臣のベルコとその後に裕のGRDフオードいう布陣だ。雅晴のシェブロンはさらに後方にいた。29台のマシンがペースカーのフエアレデイZを先頭に最終コーナーからメインストレートに姿を現した。Zがピットに速やかに姿を消すと全車がそのまま一斉にローリングスタートした。激しい爆音とともに30度バンクに我先に突っ込んでいく。まず予選1位の生沢徹がロケットスタートで先手を奪う。そのすぐ後に木倉義文のローラと黒沢のマーチがピタリと追いすがる。雅晴はトップ集団のやや後ろを走る好位置につけた。3周目に30度バンクで黒沢が生沢を捕えてトップに立った。ヨーロッパF2帰りの裕は4周目にイグニッションのトラブルで早々とリタイアした。それに続いて優勝候補の一角であった酒井正と永松邦臣もエンジントラブルでリタイア。20周目になって見崎清志や田中弘らも次々にリタイアしていった。レースは黒沢と鮒子田の一騎打ちの様相を呈していた。その後には生沢徹が必死にしがみついていた。その生沢もついに24周目にスピンしてリタイアしてしまった。さらに26周目に鮒子田もリタイア、続いて30周目にはなんとトップを走っていた黒沢までもがリタイアしてしまった。優勝候補が次々と自滅していく中で、着実に自分の走りに徹した雅晴は首位の若手ナンバーワンの高原敬武に続いて20秒遅れの2位に入った。グランチャンのデビュー戦、しかも初陣で2位という快挙を成し遂げた。この時から今までレーサーとしてはどちらかというと地味な存在だった雅晴は一躍、マスコミだけでなくレース界の中でも檜舞台(ひのきぶたい)に立つことになった。表彰台で高原の隣に立つ雅晴の嬉しそうな笑顔は自信に満ち溢れていた。マスコミも二人の初々しい若手二人の台頭にシャッターを押し続けた。しかし、このあとの6月のグランチャン第2戦は11位、9月の第3戦は13位、10月の第4戦は10位と不振が続いた。さすがに雅晴はすべてリタイアせずに完走していたが、最新モデルを手駒に持ち、徐々にレースに慣れてきた一流どころのレーサー相手に3年落ちの雅晴のシェブロンはすでに歯がたたなくなっていたのだ。「今年はシェブロンでなんとか我慢するしかないですね。来年には僕もニューマシンで思い切り勝負かけますよ」グランチャン最終戦の前日のテレビインタビューで雅晴はこう答えていた。・・・11月23日ついに運命のグランチャン最終戦の日がやってきた。すでに底冷えする富士サーキットの上空には澄み切った青空が高く広がっていた。最終戦は富士ビクトリー200キロと冠せられ、1周6キロを33周するレースだ。

この年から今まで無制限だった排気量がすべて2000CC以下に制限されたにもかかわらず,過去に5000CCや6000CCの大排気量マシンが出したタイムより平均で2秒以上も早くなっていた。これはタイヤレベルが急速に進歩したとともにグランチャンの総合レベルが格段に上がったことを示していた。と同時に、片方ではレース上での危険度もはるかにアップしていることも暗示していた。更に11月中旬、つまりグランチャン最終戦の直前に世間を揺るがす第一次オイルショックが世界中を席巻(せっけん)した。日本はようやくニクソン・ショック(ドル・ショック)から少しづつ立ち直り始めていた景気がもろに打撃を受けた。さらに前年からの第2次田中角栄内閣による日本列島改造ブームによる一連の地価高騰と石油危機による相次いだ便乗値上げにより、急激なインフレーションが加速された。一般家庭ではトイレットペーパーや洗剤など、原油価格と直接関係のない物資までもが巷(ちまた)に流れた「今買わないとすぐなくなる」という根拠のないデマで危機感に煽(あお)られ、売り場に殺到した主婦たちによってたちまち買い占められ、一時的なパニックがあちらこちらで見られた。

さらに、デパートのエスカレーターの運行中止、ネオンサインの早期消灯、テレビの深夜放送禁止など省エネが全国的に半強制化され、一般庶民の生活に大きな影響を与えた。特にモータースポーツ界はその影響と世論の非難をまともに食らった。「こんな時世に貴重なガソリンをぶん撒いて無駄遣いするモーターレース界」に世間の非難が集中した。当然グランチャンの最終戦以降のレース開催の自粛(じしゅく)も打ち出され始めたつまり74年以降のレースの目途(めど)が全く立たない状況に、レーサーたちの間に大きな緊張感と動揺が走った。「これで当分レースは出来ないだろうな・・」「今回のレースで一発、大勝負してやるぞ! どうせもうあとがないからな」「最後のレースだから5番以内に入らないとチャンピオン争いのポイントが取れない」などの様々な思惑を胸の奥に抱えて各ドライバーたちが最終戦に向かった。さらに不吉な前兆として、レースの3日前の11月20日の夜に富士スピードウエイのガレージで火災が発生した。これは別に放火などでなく、冬のカラカラに乾いた空気のせいで車の洗浄スプレーに石油ストーブの火がたまたま引火して起こった自然火災だった。しかしそれによってガレージ内の2台のマシンが炎上してしまった。結果、レーサーたちの間にいらぬ疑心暗鬼(ぎしんあんき)と緊張感を一気に増幅(ぞうふく)させてしまった。そして誰がみても異常な、只ならぬ気配が漂う中で予選が始まった。澄み切った快晴という気候的な好条件もあって,各車の予選タイムは異常なまでに跳ね上がった。ポール・ポジションの黒沢元治は1分42秒8(平均時速218キロ)という絶対コースレコードを打ち立てた。これは黒沢の今までのベストタイムを1秒以上も縮めたものだった。雅晴のタイムも1分46秒04で自己ベストタイムであり、35台中予選15位につけていた。「異常だ!」「なんかおかしいぞ?」「速い!」「速すぎないか?」誰もが不吉な雰囲気をそれとなく感じ取っていた。ランチタイムの休憩が終わり12時45分、グリッド上に目にも鮮やかなカラフルな35台のマシンがズラリと並んだ。

雅晴は朱色のシェブロンに同じ朱色のヘルメットをつけ、ひと際観衆の目を引き付けた。「中野~、今回は頑張れよ。もう後がないぞ~」「雅晴さ~ん、今日こそ頑張ってね~!」観客のあちこちから雅晴に向けての激励や黄色い声援が飛び交った。口元を白いマスクで覆い、朱色のフルフエイス・ヘルメットから目だけが見える雅晴の表情にも何かただならない緊張感が漂っていた。ひと月早いクリスマスツリーが点灯し、35台が轟音を響かせて一斉にスタートした。いや正確には32台だった。3台のマシンが全く動けずスタートラインにそのまま取り残されていたのだ。これも普段では決して起こらない異常な出来事だった。32台のマシンがひしめき合いながらフルスピードで30度バンクに突っ込んでいく。トップグループは一列縦隊になりつつあったが、その後方集団は芋を洗うかのような団子状態だった。いつもスタートの上手な生沢はバンク進入時点で8位だったが、左側、つまりバンクの上段が大混雑していたのでやむを得ず下段を走らざるを得なかった。

百戦錬磨の生沢はもちろんバンクの下段を走ることは非常に危険であることはよくわかっていた。バンクの下段は角度が上段に比べて緩く、デコボコのつなぎ目を高速で通り過ぎる事は上段に比べて遥かに難しいものだった。スタート直後でタイヤもまだ硬く冷えていた。つなぎ目に足を取られ生沢のマシンが激しくスピンした。「やばい」コントロールを失ったマシンはもう生沢の手に負えなかった。生沢のコントロールから逃れたシグマはそのまま大集団がひしめくバンク上段へと一気に駆け上がった。と、同時にすぐ上を走っていた漆原徳光(うるしばらのりみつ)のローラに激しく激突した。両車はそのままクルクルと駒のようにスピンしながらバンクの下方にi勢いよく滑り落ちていった。10メートル後ろにいた雅晴は前方の異変にすぐ気づいて反射的にフル・ブレーキングした。しかし雅晴の後ろではすでに激しい多重衝突が起こっていた。まず津々見友彦のローラが田島基邦のシェブロンに激突、押し出された田島は岡本安弘のシグマに衝突、更に清水正智のマーチにも激しく衝突した。その清水のマーチが雅晴のシェブロンに真横から凄まじい勢いで激突した。雅晴のシェブロンはそのまま上段のガードレールに垂直に向かって200キロ以上の猛スピードでぶつかっていった。あっという間の出来事だった。

『ガァーーーーン』と、いう物凄い大音響とともに雅晴のシェブロンは爆発し、瞬間大炎上した。そのままもつれるように後続の清水、田島、岡本の3台も爆発炎上した。スタート直後で各車がガソリンを満タンにしていたことからの悲劇だった。バンクの上段で四台のマシンが巨大な炎に包まれていた。炎は数10メートルまで燃え上がり、ガードレールだけでなく後ろの金網まで焼き尽くす勢いだった。激しい炎に包まれたまま四台のマシンがゆっくりとバンク下まで滑り落ちていった。下段まで滑り落ちていった四台のマシンのうち三台のマシンから、命からがら必死でドライバーたちが抜け出してきた。田島は幸い軽傷で済んだが、岡本は顔面を含む瀕死の全身大やけどを負った。また清水は腕に実に450針も縫うという

大きな裂傷を受けていた。しかし雅晴のシェブロンだけは全く動きを見せず、ただ黙々と燃え続けるのみだった。あまりの火の強さに消防隊ですら近寄ることは出来なかった。隊員たちは限界ギリギリまで近づいて炎の中で燃え盛る車の中を凝視した。「中にドライバーが見えるぞ」「ずっとハンドルを握ったままだ」「全く動いていない」燃え盛る激しい炎の中に微動だにしない黒い人影らしきものが垣間見えた。雅晴だった。後日分かったことだが、雅晴はその時すでに呼吸困難で事故直後に死亡し、レースが終わる1時間後までシェブロンは雅晴をコックピットに乗せたまま燃え続けた。延々と燃え続ける四台から伸びる黒煙の影の中を、生き残ったマシンが猛スピードで走り抜ける様はまさに異様だった。この映像はそのままテレビで生中継されお茶の間に大きな衝撃を与えた。今まで全く事故とは無縁だった中野雅晴はわずか24年の生涯を壮絶な最後で閉じた。レースは事故後もそのまま継続された。クラッシュしたマシンの残骸がすでにコースの下段に滑り落ちていたため、走行ラインには支障がなかったからだ。一時間後、レースはむなしいチェッカ―フラッグで幕を閉じた。表彰台に上がったレーサーたちにはもちろん笑顔はなかった。「優勝、鈴木誠一選手」「2位、風戸裕選手」「3位、酒井正選手」アナウンスの乾いた声がむなしく富士サーキット場にこだました。35台出走して完走が17台という前代未聞のレースであった。・・・翌朝の朝刊には次のような記事が掲載された。11月23日午後零時45分ごろ、静岡県の富士サーキットでのチャンピオンシリーズ最終戦の決勝レースのスタート直後、第一コーナーのカーブ(傾斜角度30度)で、レーシングカ八台が接触したり、ガードレールに激突して、うち四台がコース上で炎上、ほか二台が勢い余ってガードレールを飛び越えて大破した。このため炎上した車を運転していたヒーローズ・レーシング所属の中野雅晴選手(24)は車に閉じ込められ、救急隊が救出して病院に運んだが、途中、全身やけどで死亡した。ほかの炎上車から自力で脱出した清水正智(26)田島基邦(26)岡本安弘(30)の三選手も御殿場市内の病院に収容されたが、両手足、顔などに2-3週間ほどのやけどを負った。御殿場署の調べでは、先頭グループにいた生沢徹選手の車が前方でスピンを起こした。このため後続の車が避けようとしてそれぞれ激突、四台が炎上した模様。

第9章 完