風になったアブラハム 第5章 グレート猪瀬とタキレーシング
第5章 グレート猪瀬とタキレーシング 昭和45年
タキレーシングチームは1967年にレーサーの滝進太郎が30歳の時に立ち上げたプライベートのレーシングチームだった。進太郎は、名古屋の老舗繊維問屋「瀧定(たきさだ)」の正統の跡継ぎとして生まれ、その時から6代目当主の「瀧定助(たきさだすけ)」を継ぐ運命になっていた。立教大学の学生の時にレースに目覚めそのまま勝手にプロレーサーに転向してしまった。伝統ある家筋のしがらみを嫌い「6代目瀧定助」も自ら返上したという変わり種だった。田中健二郎は滝より3歳年上だったが自分に経営能力がない事は自覚していた。だから商才のある滝にマネジメント業務を一任し、自分は実務のレーサーと若手レーサーの育成及びチームリーダーに専念する事にした。進太郎と健二郎の二枚看板のもとに長谷見昌弘(はせみまさひろ)や永松邦臣(ながまつくにおみ)といった当時の2輪上がりの猛者(もさ)連中が徐々に集結して来ていた。そして今や滝レーシングは日本のプライベーター・チームの中では唯一トヨタとニッサンに対抗しうる実力を誇っていた。健二から正式なサポートを得た裕は次のチャレンジを将来を見据えてあらゆる可能性の中から模索(もさく)していた。一番魅力を感じていたのはCAN・AMシリーズへの挑戦だった。これはカナダ・アメリカ・スポーツカーチャンピオンシップの通称でカナダと北米のサーキットを転戦する排気量無制限のスポーツカーのレースだ。何しろスケールがダイナミックでアメリカでは大人気だった。今まで乗っていたのが800ccのエスハチエンジンだから、通常次のステップは1200から1600ccが妥当な選択肢だった。だがすでにCAN・AMを視野に入れていた裕は、次は思い切って2リッターカー(2000cc)にする事にした。神山からポルシェ・カレラ10がタキレーシングから売りに出されていると知らされ、裕はすぐに世田谷区下馬(しもうま)にあるタキレーシングの工場を訪ねた。そこは閑静な住宅街の中にあった。「こんにちは。風戸です」工場の奥で一台の大きなスポーツカーを取り囲んで3人の男がチューニングしていた。一人は顔見知りの田中健二郎であとの二人は共にまだ20代半ばの若者に見えた。二人ともがっちりした筋肉質の男たちだった。「やあ、風戸君、久しぶり」にこやかに手を挙げ健二郎が近づいてきた。「靖(やす)ちゃんから話し聞いてるよ。ポルシェ買うんだって? 凄いね」横でそれを聞いていた二人が「えっ?」と思わず声を上げ顔を見合わせた。彼らはニッサンワークスから健二郎にスカウトされてタキに来たプロライダーで長谷見昌弘と永松邦臣だった。特に長谷見は高校2年の時に鈴鹿のモトクロスレースでインから鮮やかに生沢徹を抜き去り日本チャンピオンになった猛者(もさ)だった「あんな子供に抜かれた。情けない。もう2輪レースはやめる」と生沢が2輪を見限り4輪に行くきっかけを作った天才ライダ―だった。「おい、聞いたかよ。なんであんな坊やがポルシェ買えるんだ? 最低800万以上はするって滝さん俺に言ってたぜ」長谷見が口を膨らませて言った。当時の800万円は今の貨幣価値だと3千万円から4千万円くらいだろうか。長谷見たちが驚くのも無理はなかった。健二郎は裕を滝がいる2階の事務所に連れて行った。滝は新進気鋭のまだ32歳という若きオーナーだった。真っ黒に日焼けした精悍な顔つきをし、髪はかなり短く刈り込んでおり、洗い立ての白いポロシャツとジーンズというラフな服装をしていた。いかにも老舗(しにせ)の跡取り息子という育ちの良さがその顔つきや仕草から感じられた。「やあ、こんにちは、君が風戸君だね。健さんや靖ちゃんから話は良く聞いているよ。まあ座って」と、片隅にある小さな応接テーブルに手招(まね)いた。裕の前に滝が座り、その横に健二郎が座った。裕は顔を赤らめて見るからに緊張していた。頭を大きく下げて大声で言った。「今後色々お世話になります。風戸裕(ひろし)です。今、成蹊大学の2年です。よろしくお願いします」「しかし、前代未聞だよな。20歳(はたち)の大学生がポルシェを買えるんだから・・。おまえまさかその金、親父の金庫から盗んできたんじゃないだろうな? 」と、健二郎がウインクしながら冷やかした。裕は背筋をピンと伸ばして固くなったままで、健二郎のジョークに気が付いていない。真っ赤になって否定した。「ジョークだよ、ジョーク。マジにとるなって」今度は健次郎の方が少し慌てた。滝は自分も裕福な環境で育ったので、裕がポルシェを買うことに特に驚いた素振りは見せなかった。滝は裕のこれからの事を健二郎と確認しながらテキパキと決めていった。まずこれを機に裕はタキレーシングチームの正式メンバーになること。レースにはポルシェカレラ10でタキレーシング所属としてレースに参戦すること。専属メカニックに今まで健二郎の担当だった猪瀬良一(いのせりょういち)を付けること。そして健二郎が責任を持って裕の技術指導にあたること等が矢継ぎ早に決められた。「美貴ちゃん、ちょっと悪いけど下に行って猪瀬(いのせ)君呼んで来てくれる? 」滝は3人にコーヒーを持ってきた青色の超ミニでショートカットがよく似合う事務の女の子に明るく声をかけた。すぐに油汚れのメカニックスーツの男が手袋を脱ぎながらこちらにやってきた。年を聞くと29歳だという。「彼が猪瀬良一君。今うちで一番腕が立つメカニックだよ。君の担当になるからよろしく」と、滝が紹介してくれた。裕より9歳上だがかなり若く見えた。髪を耳の下まで伸ばし笑顔が似合うとても気の良さそうな男だった。猪瀬も日本に一台しかないポルシェカレラ10の担当を任されて気が引き締まる思いだった。紹介された裕を見て(この子がポルシェカレラの新しいオーナーなの!)と心の中でかなり驚いたが表情にはおくびにも出さなかった。これが裕のレース人生の生涯の女房役となり、後年周囲から「グレート猪瀬」という異名で呼ばれるようになる世界的名メカニック、猪瀬良一との初めての出会いだった。ポルシェカレラ10と猪瀬良一というこれ以上ないパートナーを得て更にタキレーシングという強力な後ろ盾を持った裕に健二も心から喜んでくれた。「体制のしっかりしたチームで、大きな車でこれからのレースに臨める事は裕の安全にとっても願ってもない事だ」健二は瑞枝に裕の現況を説明した。瑞枝も今更レースをやめさせるのは無理だと承知していた。だから「せめて安全面では出来るだけの協力は惜しまない」と、いう健二の意見には賛成だった。その夜、タキモーターズの工場の近くの中華料理店に健二郎を筆頭に長谷見、永松、猪瀬の4人がザーサイとメンマをつまみにビールを飲んでいた。「あっ、おばちゃん、麻婆豆腐とレバニラ炒め2人前ずつ、それと餃子4人前ね。あと生4杯おかわり」常連の健二郎が手際よく注文をしていった。健二郎も長谷見も永松も3人とも2輪レースの出身である。しかも3人とも2輪の世界では華々しい経歴を持っていた。特に健二郎は「逆ハンの健二郎」と異名を取った人気者で川口オートや浜松オートで大活躍したプロのオ―トレーサーでもあった。当時の4輪レース界では2輪レース経験者が主流を占めていた。2輪レース出身者は一応にプロレスラーみたいなごつい体つきをしていた。長谷見も永松も肩や腕の筋肉は溶岩のように盛り上がっていた。とりわけ尻はとてつもなくでかく、太股は異様に太かった。健二郎は二人に比べるとスラっとして痩せて見えたが、裸になるとボディビルダーのような鍛え上げられた体つきをしていた。猪瀬は単なるメカニックなので普通の中肉中背タイプだった。彼らの話題はもっぱら今日工場に来た裕に集中した。「あの子、あんなヒョロとした細い体でポルシェなんか本当に運転出来るのかな?」半袖のTシャツを肩までまくりあげ丸太のような腕を見せて、長谷見が生ビールをゴクッゴクッと一気に飲みほした。「あぁ、俺もそう思う。猪瀬さん、仕事が報われないと辛いっすよね?」体はごついが童顔で少し垂れ目の永松も餃子を口一杯に頬張りながらビールで流し込んだ。猪瀬もまったく彼らと同意見だったが何も言わず、笑いながらただ黙ってぬるいビールをちびりちびりと飲んでいた。「健二郎さん、彼の走り見たことあるんですよね?」永松が今度は健二郎に話しかけた「ああ、もちろんあるよ。まだレース経験は2年と浅いけどセンスは只者じゃあないね。最近の金持ちのボンボンレーサーを舐めてかかるとそのうち俺たちも痛い目見るかもな。彼らはまずレースに一番大事な莫大な資金力をもっているし、レースをすることを心から楽しんでいるからな。」健二郎が遠くを見る目でぼそっと言った。三人は一瞬黙って顔を見合わせ、揃って上目づかいに健二郎の顔を窺(うかが)った。裕のポルシェカレラ10でのデビュー戦が10月10日の日本グランプリに決まった。そして健二郎と裕のレースへ向けての特訓が始まった。9月初旬の富士サーキットには日本グランプリに出場するタキレーシングのメンバーがズラリと勢ぞろいした。5リッター以上の排気量無制限のクラス5に出場予定の長谷見・永松コンビ、3リッターのクラス4には田中健二郎とポルシェワークスのハンス・ヘルマン、2リッターのクラス3には裕とベテランの長谷川弘が臨むこととなった。田中と猪瀬がじっと見守る中、裕は初めてカレラ10に乗り込んだ。エンジンをかけるとエスハチの800ccとはまったく別の物だった。甲高い金属音のエスハチに比べ約2.5倍のパワーを有するカレラ10は裕の五臓六腑に響き渡る重低音を轟(とどろ)かせた。身体が痺れるような力強い振動が体中を廻(めぐ)った。(エスハチとはまったく違う)ブラバムホンダでも異次元の世界を体感した裕だが更にまた別の新しい世界を目の当たりにした。アクセルを少し踏み込んだ。巨大マシンが裕の指示で滑(なめ)らかに加速した。更に強く踏む。今まで経験した事のない強いG(重力)がかかり体ごとシートにドンと、押さえつけられた。同時にマシンは「グォーッ」と大きな吠え声をあげ空を飛ぶように加速した。初めて味わう激しいGに裕は最初かなり戸惑いを覚えた。しかし少し慣れて来ると大排気量のカレラの方が800ccのエスハチより取り扱いが楽な事が分かってきた。つまりパワーが増えた分だけエンジンの回転数が安定し、アクセルワークのみに神経を集中すれば良いからだ。裕は今までの葉巻型の小ぶりなブラバムから一気に視野の広いコクピットに乗ったことで自分の実力も数段上がった気がした。しかしそれはあきらかに錯覚だった。すぐに裕は未熟者がポルシェカレラにいきなり乗る事がいかに無謀なことかを思い知らされる事になる。エスハチでは一流の腕だと認められた裕だが、ポルシェではまったくと言っていいほどタイムが伸びなかった。健二郎や長谷見が運転した時と比べ桁(けた)違いにタイムが悪かった。国産の800ccとドイツ製の2リッターカーではレベルが違いすぎた。今までエスハチで培ってきた裕の運転技術がカレラにはまったく通用しなかった。今までの自信を完全に打ち砕かれた裕は頭の中が真っ白になった。ブラバムの時に把握していた富士のコース取りも一瞬にしてすべて頭から吹き飛んでしまった。近くで見ていた猪瀬と健二郎も「ひどすぎてこれ以上見ていられない」と目を覆い、頭を抱えた程だった。「お願いだからとにかくもう一度教えてあげてよ」と、猪瀬は長谷見と永松にも必死で頭を下げて頼みこんだ。健二郎と長谷見と永松が交互に地面に棒で100Rの絵を書いてコース取りの仕方を細かく教えてくれた。「どのみちよぉー、富士のコースを全部自分の思い通りに走るなんざ、所詮(しょせん)無理なことなのさ。S字取ったら100Rは捨てるんだね」と、健二郎。「分かりました。“捨てる”って、なんかかっこいいですね」「ヒロシ、もっとさ、コーナーではさ、体ぐっと曲げてさ、ギュッと踏み込むんだよ」「ヒロシ、最後は気合いだよ! 気合、そして根性!」と、長谷見と永松。「? ? ?」と裕。しかし裕のドライビングと2輪上がりの3人のそれとは致命的な違いがあった。この3人は2輪レース界でも全員がチャンピオン経験者で超一流のライダーだった。つまり田中達3人が教えるコース取りは2輪の経験がない者にはまず理解不能だった。2輪経験のある4輪ライダーは2輪で身に付けたコーナーでの体全体を使う体重移動を4輪でも見事に応用できる。その技術は長年の2輪経験から体が自然と覚えている。2輪経験がない裕にそれをやれというのは土台無理な話だった。マシンを体全体で動かす2輪ライダーには容易(たやす)い技術でも裕にはどうしても出来なかった。どうにか頭で分かっていてもどうしても体が反応してくれなかった。横で何回も長谷見たちが教えるのを聞いていた猪瀬も「あの乗り方は2輪経験者でないと無理だな」と思った。健二郎もその事は頭では分かっていた。でも2輪経験のない者への教え方が彼らにはわからなかた。しかし「集中力と持続力」がモットーの裕は決してあきらめなかった。健二郎や長谷見や永松の助言を言葉としてまず頭の中で理解する。あとはそれに基づいて身体で覚えるだけだ。「2輪経験がなくても負けないコーナリングの仕方が必ずある筈だ」裕は確信していた「おいヒロシ、もう帰るぞ! 」と健二郎が呼びかけても「あと1週だけ。お願い、健二郎さん」「もう1週だけ、これで最後です」と、しつこく粘って何度も苦手な100Rのコーナリングを繰り返した。またコースにほかのマシンが出ていない時、健二郎はスタートから30度バンク、そして100RからS字までゆっくりと二人で歩き、裕にコーナーの状態を腰をかがめ、時には地面に顔がつくほどに、つぶさにチェックさせ頭に覚えこませた。さらに健二郎は裕を助手席に乗せコースの各部分を運転席から見せ、それぞれの攻略のポイントを教え、これは重要だというコースはいちいち車からおりて、手で直接コースの表面に触らせ、その生の感触を裕に細かく教え込んでいった。裕も本物のプロの細部にまで注意を払う厳しさを身をもって学んでいった。そして最後の練習日には田中達2輪あがりのライダーのテクニックとは違う独自のコーナリングテクを身につける事が出来た。最後の練習で裕のポルシェカレラ10が田中達2輪ライダー上がりより速いスピードで100Rを走り抜けた時、さすがの永松も唸った。「あいつ、本当に只者じゃあねぇな! 」猪瀬はそれを聞いて心からうれしかった。すでに一ヶ月ほぼ毎日裕と猪瀬は会っていた。そして猪瀬は裕の素直さがとても好きだった。更に裕には育ちの良さから生じる気品が備わっていた。タキレーシングのメンバーはオーナーの滝以外はみな叩き上げの荒々しい野武士集団だった。常に勝ちにこだわる彼らは時にはコースを急に割り込んだり、車体を故意にぶつけたりのダーティなラフフアイトも時と場合にはいとわなかった。もちろん裕も勝つために懸命に努力しているが、ライバルをアンフエアに蹴落としてまで勝負に勝つ事は頭になかった。猪瀬は田中も長谷見も永松も皆好きだったが、叩き上げの彼等には勝負にこだわるあまり、たまに“がさつで粗野な一面〝も見えた。しかしお坊っちゃん育ちの裕には微塵もそれはなかった。裕はモータースポーツをあくまでフェアな精神で勝ちに行く事にこだわっていた。猪瀬はその裕の心意気に心から魅了された。ついに10月10日の日本グランプリの当日を迎えた。空は抜けるように青い、まさに日本晴れだった。タキレーシングは予定通り三つのクラスにエントリーしていた。ニッサンR382やトヨタ7など5から6リッターのモンスターマシンがひしめくクラス5には長谷見・永松の筋肉コンビがタキローラT70で出場。さらに提携先のポルシェからお化けマシン・ポルシェ917でジョ―・シフェールがタキレーシングからの形でエントリーしていた。3リッターカーのクラス4にはポルシェワークスのハンス・ヘルマンと我らが兄貴でチームリーダーの田中健二郎がポルシェ908で出場。そして2リッターのクラス3に35歳のベテランで2輪の元日本グランプリチャンピオンの長谷川弘が若干二十歳(はたち)の裕と組んでポルシェカレラ10で出場した。日本グランプリは排気量別の5から1までのクラスが同時に競争し、総合とクラス別順位を競うものだ。1週6kmの富士のコースを最大120周する、合計で720kmの道のりを休まず走るまさに過酷な長距離レースだ。出走総数は31台で、優勝候補は勿論ニッサンR382とトヨタ7のお化けマシンの一騎打ちと目されていた。それにタキレーシングのポルシェ勢がどれだけ食い込むかだ。ニッサンR382は3台がエントリーしてきた。ナンバー20が北野元(もと)と横山達(たすく)、ナンバー21が黒沢元治(くろさわもとはる)と砂子義一(すなこよしかず)、ナンバー23が高橋国光(たかはしくにみつ)と都平健二(つひらけんじ)のコンビである。全員がニッサンワークスのスーパーエース級で当時の日本を代表する名うてのドライバーばかりだった。かたやそれを迎え撃つトヨタ勢も負けていない。トヨタ7はなんと今回は5台もエントリーしていた。その中でも最有力候補は福澤幸雄(サチオ)の死後、一躍トヨタのエースドライバーにのし上がった川合稔(かわいみのる)だった。しかも彼は最初から誰ともコンビを組まず一人ドライバーでエントリーしていた。当時川合は丸善石油のCMの「おう、モーレツ! 」の売れっ子モデル、小川ローザの恋人でも知られ公私ともにノリに乗っていた。レースが始まった。2列目スタートのトヨタ7の川合とポルシェ917のシフェールがロケットスタートを決め、壮絶なトップ争いを演じながら30度バンクに突っ込んで行った。3週目まで川合がトップを奪っていたがシフェールに直線で追い抜かれた。しかし熾烈な二台の上位争いをしり目に満を持していたニッサンR382の3台が12週目にあっという間にこの2台を抜き去り1位から3位まで独占してしまった。結局最後は黒沢と北野のR382が仲よくワンツーでフィニッシュをした。もう一台の高橋のR382は燃料噴射のトラブルでピットインを繰り返し脱落した。それに乗じて川合が3位に滑り込んだがニッサンの上位2台からは屈辱的な周回遅れという大差でちぎられた。予選17位スタートの裕も頑張った。健二郎から叩きこまれたS字カーブと100Rのコーナリングを見事にこなし総合で7位の健二郎に次ぐ総合8位及びクラス3の優勝も勝ち取った。「なんでこの坊や、俺より早いんだろ? 」と、裕のあまりの早さにコンビを組んだベテランの長谷川弘も舌を巻いた。お化けマシンのポルシェ917のシフェールもなんとか総合6位、クラス6位にしがみついた。ただ長谷見・永松の筋肉コンビのタキローラだけはスタート後すぐにエンジントラブルでリタイアしていた。長谷見と永松はピットで「こんちくしょう! 」と大声で吠えていた。ポルシェカレラ10を得た裕はその後連戦連勝を積み重ねていった。まず11月3日の富士スピードフェスティバルでは50周、30kmを一人で走り抜いて一度も首位を譲らず優勝した。年を越えた1970年1月8日と3月8日の初めての鈴鹿でも総合2位とクラス優勝と総合優勝を飾った。特に1月8日の鈴鹿は裕にとって生まれて初めてのコースでもあり、更に雪も降る最悪のコンディションだった。鈴鹿を知り尽くした永松の的確なコースアドバイスもあり、永松のポルシェ908に続く総合2位でフィニッシュした。その後の3月22日の富士と4月5日の鈴鹿は予選・決勝共に1位で完全勝利を勝ち取った。つまりポルシェカレラに乗り替わってからは6戦して個人総合優勝4回、全てがクラス優勝という快挙を打ち立てた。21歳になった裕は若手ナンバー1の評価を勝ち取りスター街道を驀進(ばくしん)し始めていた。・・・このころ同じく3月に21歳になったばかりの中野雅晴は一人まだ肌寒い4月初旬のフランスにいた。既に日大の4年生になっていた雅晴は将来のことで色々悩んでいた。雅晴はまだTMSCに在籍していた。これまでの成績は完走率90%、うち優勝が2割、2位が8割という素晴らしいものだった。裕ほど目立つ成績ではなかったがTMSCの中での雅晴の立場は極めて重要な物になっていた。完走率90%というそのシュアな走りでトヨタからはとても重宝がられていた。勝味(かちみ)は遅くとも確実に2位までに持ってくる安定度がトヨタから高く評価されていた。何より車を壊さないドライバーはメーカーにとってとても有難い財産(たから)だった。雅晴はこのころTMSCのドライバーだけでなく川合稔と一緒に運営にも携(たずさ)わっていた。福澤幸雄亡き後のエース川合稔につぐ第二のレーサーになっていた。しかしながら、トヨタからのワークスドライバーの執拗な誘いを雅晴は今までずっと固辞してきた。理由の一つは雅晴の家庭の事情だった。大学卒業を来年に控え、北澤バルブが経営する諏訪湖湖畔の老舗ホテルを管理するよう両親からしつこく言われていた。しかし雅晴も裕ほどではないにせよ、すでに若手レーサーの有望株の一人としてマスコミにも何回も取り上げられていた。「もう少しレースを極めたい」と、いう欲望も強く残っていた。しかしこれも雅晴が「もう少しだけ待ってくれれば必ずホテルを継ぐ」と、確約すれば簡単に解決できるものだった。問題はトヨタのワークスドライバーの方だった。この頃すでに公害問題が頻繁にマスコミに取り上げられ、世間の目を強く気にし始めたトヨタやニッサンのメーカー系チームは排気量無制限の大型スポーツカーのレースを以前より敬遠する傾向が目立ち始めた。トヨタセリカやカローラのような大衆向けのツーリングカーレースばかり運転させられ、雅晴も最近ではほとほと嫌気がさしていた。先輩の川合稔も極秘の覆面カーとやらの試験走行ばかりやされ本格的なレースからしばらく遠ざかっていた。「もっと本格的なレーシングカーを経験してみたい」つまりこれら将来の事諸々(もろもろ)のことをを考えて整理する為、雅晴は一人パリに来たのだった。雅晴がパリに来たもう一つの理由は親友の福澤エミがパリにいたからだ。エミはサチオの事故のあと、日本にいる事自体が嫌になり、ずっとパリに住んでエドワーズのデザインと経営全般の仕事をしていた。日本には仕事上必要な時だけたまに帰るだけだった。この頃エミだけでなく福澤家とトヨタはまさに全面戦争の状態にあった。サチオの死後、トヨタは事故原因のすべてをサチオの運転ミスとして片付けようとした。さらにトヨタ側は事故の真相解明の手掛かりとなりうる焼失した事故車両などすべての資料を秘密裏に勝手に処分してしまっていた。サチオの父、進太郎はトヨタ側のあまりにも理不尽で不誠実な対応に激怒した。母のアクリビィと妹のエミの怒りも進太郎と同じであった。最愛の息子であり兄であるサチオの名誉と尊厳を守るため福澤家は敢然と立ち上がった。進太郎は事故の起こった同年の9月にトヨタを「業務上過失致死と証拠隠滅(しょうこいんめつ)」で告訴していた。昼下がりの午後、ルーブル美術館に近いオペラ地区のカフエの店先にエミと雅晴の姿があった。「へーっ、雅晴君、トヨタやめる気なんだ」久しぶりに会うエミは溌剌(はつらつ)としていた。4月初旬のパリはまだかなり肌寒い。エミは厚手のグレーのマフラーを太くグルグル巻きにして、薄手の黄色いダウンジャケットを着ていた。オフホワイトのスリムジーンズにベージュののセミロングブーツを履き、相変わらずお洒落のセンスは健在だった。雅晴からくわしい現状を聞いた後、エミはさらりと言った。「雅晴君、エドワーズ(つまりエミ)が君のスポンサーになってあげる。別にこれはトヨタに対する恨みでも報復でもないわ。君のレースにも私は全然興味ないし・・。ただ中野雅晴という君、個人のスポンサーにならなってもいいわ」このあとしばらくして中野はTMSCから離れエドワーズを正式スポンサーに迎えプライベーターとして戦う事になる。「でも一つだけ条件があるわ。エドワーズがスポンサーの間は専属のスタイリストとして私の仕事を手伝う事。これは譲れないわよ。それからレース前のマスコミ取材の時はしっかりエドワーズの商品を宣伝するのよ!」と舌をペロッと出して笑った。さすがにエミはビジネスにはしたたかだった。日本に戻った雅晴にまた更なる衝撃的な出来事が待ち受けていた。福澤幸雄の死後トヨタワークスのエースドライバーになっていた川合稔が、8月26日、鈴鹿サーキットでのトヨタ7の練習走行中に事故死してしまったのだ。8月26日、トヨタの大部隊が鈴鹿サーキットを借り切ってトヨタ7ターボのテスト走行を極秘裏に行っていた。河野二郎技術部長を筆頭にメカニック15人、テストドライバーは川合稔に細谷四方洋(ほそやしほみ)、久木留(くきどめ)博之の3人が呼ばれていた。いずれもトヨタワークスのエース級のドライバーたちだ。午前中は主に足回りのセッティングが行われ午後から本格的なテスト走行が始まった。まず最初にチームトヨタのキャプテンで川合より4歳年上の細谷が乗り込み数周走り込み様子を見た。「川合君、まあ今のところはセッティングはまったく問題ないよ。でも僕はあまり全力でやってないから、様子を見ながらやったほうがいいよ」「細谷さん、ありがとうございます。大丈夫です。無理はしません」細谷に爽やかな笑みを見せて川合が一気にピットから飛び出していった。「おいおい、1周目でもう2分08秒のコースレコードが出たぜ」「凄いなあ、まだ余力はたっぷりあるぜ」2週、3周とほぼ同タイムで川合のトヨタ7は順調にコースを快走していた。その様子をじっと見守っていた河野二郎は、「これならもう大丈夫だな」と、一心地ついて胸ポケットからハイライトを出し火をつけた。一度深く肺の奥まで吸い込み、たおやかな紫煙を口からゆっくりと吐き出した。「あー、うまい」と、河野がつぶやいた瞬間だった。4周目に差し掛かった川合のトヨタ7がヘアピン・コーナーの手前の100Rでけたたましいブレーキ音と生々しいタイヤ痕を残しながら150キロ以上のスピードでコース外に一気に飛び出していった。もはや完全に制御不能の中,さすがに沈着冷静な川合は巧みにセーフティゾーンのガードレールや水銀灯を避けるようにコース横の草地を突っ走っていった。ところが運悪くその長く生い茂った夏草の中に幅3M、高さ2Mほどの堅い土手が隠れていた。トヨタ7は猛スピードでその土手の横腹にぶつかると、一瞬にしてバラバラに砕け散りながら空高く舞い上がり、60Mほど飛ばされ、ヘアピンの立ち上がりのイン側に裏返しになって落ち、ようやく止まった。川合はその勢いで安全ベルトも何もかもがマシンから引きちぎられ、空高く100Mほど飛ばされ、そのまま地面に思い切り叩きつけられた。あっという間の出来事だった。それを見ていた河合二郎は、何が目の前で起きたのか理解できなかった。「いったい、どういうことなんだ・・・」気が付くと河合の小刻みに震えた指先のハイライトは爪を焦がすほど短く燃えつきていた。事故が起きたのが午後3時50分、川合はすぐに病院に運ばれたが午後4時10分に死亡が確認された。が、実際は頸椎(けいつい)が折れ頭蓋骨陥没でほぼ即死の状態であった。川合はこの年の2月に若者から絶大の人気を得ていたアイドル、小川ローザと挙式を上げたばかりだった。180cmを超える端正な顔立ちをした実力派の人気レーサーと人気絶頂の可愛らしいCMタレントとの結婚はマスコミに大きく取りあげられた。まさに絵に書いたような美男美女の理想のカップルだった。その後、半年で未亡人になった小川ローザは芸能界からぷっつりと姿を消し、二度と公(おおやけ)のカメラの前に出ることはなかった。なぜこんなに排ガス規制の問題が強くなっている日本国内で、「トヨタ7のような大排気量車のテスト走行を極秘裏にトヨタと川合稔が何回も行っていたのか?」という長年の謎がしばらくしてからようやく判明した。当時、トヨタはすでに大型車が毛嫌いされていた日本での市場をあきらめ、将来の北米と欧州市場を視野に見据えトヨタ7と川合稔のコンビで1971年からCAN・AMに挑戦しようとしていたのだ。しかし,川合稔の事故死でトヨタはCAN・AM挑戦をあきらめ、トヨタ7もその後表舞台に一切出ることなく歴史の闇の中に葬り去られてしまった。当時、トヨタを去ろうとしていた雅晴やその翌年にCAN・AMに挑戦しようとしていた裕はその事実をまったく知る由もなかった。
第5章 完