風になったアブラハム 第2章 コーヤマ・モータース
第2章 コーヤマ・モータース 昭和43年~
昭和43年、めでたく高校を卒業した裕は半年だけ懸命に勉強して内部進学テストにかろうじて合格し、成蹊大学の経済学部になんとか入学した。ボーグルズのメンバーもみんな一緒に成蹊の大学生になっていた。
このころになると裕のモータースポーツへの情熱はますます過熱していった。東次郎の伝説のレースを観戦後、裕はマツダ・キャロル360で、雅晴はスバル360で同じチームでお互いにジムカ―ナのレースで腕を競いあった。二人のドライビング・テクニックは仲間内でも抜きんでていた。但し、かれらの特徴は全く対照的だった。
裕は常に勝ち負けにこだわり、時には無謀とも思われるコーナリングを試みて勝ち抜けるような度胸満点の走りが特徴だった。当然その走り方ゆえにコーナーをいつも激しいスピードで突っ込み、急カーブを曲がり切れずバンクに突っ込んでリタイアなんてこともよくあった。だから裕は仲間内でもとにかく目立つ存在だった。
一方、雅晴はどちらかというと勝ちよりも完走することに重きをおいていた。
「英語と国語と数学の3科目のなかで2科目だけ満点とっても、残りの1科目で0点だったら試験には絶対受からないよ」と、いうのが雅晴の持論だった。雅晴は1科目だけ満点を取るよりも、常に均等に3科目の平均点を上げる事に念頭を置いた。雅晴にとって一度リタイアしたらその科目は0点になることを意味していた。。
「常にリタイアを回避し、完走を目指す」「無理に優勝を目指さず、少しでも上位を勝ち取る」だから雅晴の完走率はチーム内でも群をぬいていた。裕みたいに激しくクラッシュしてリタイアするという事はまずなかった。裕は完走したらまず1位、負ける時は大体クラッシュ。雅晴は裕が完走の時は大体2位。裕がいない時だけ1位というのが彼らのレースパターンだった。だから
「中野はシュアだけど走りに華(はな)がない」と,いうのが雅晴のメンバー内のもっぱらの評価だった。
裕はすでに前年の5月、船橋サーキットでの日刊スポーツジュニアレースの第一戦で雅晴と一緒にプロデビューしていた。車は雅晴のすすめで購入したホンダエスハチだった。1週3・4kmを15周する。裕は予選4位で無難に通過し、決勝ではいきなり2位になった。デビュー戦でいきなり2位に飛び込んできたまだ18歳の高校生に周囲は注目した。
但し、その後の7月の第2戦ではピストンの不具合で1週も走らずオーバーヒートでリタイア。その後、富士サーキットで数戦するもいずれも、オーバーヒート、キャブレター不備、エンジン・トラブルなどですべてリタイアしていた。
4月の晴れた午後、裕たちボーグルズのメンバー4人は来る5月3日に行われる日本グランプリに備えて、富士スピードウエイで練習していた。
「コーナーはいいけど、ストレートで伸びてないな。エンジンのフケ(伸び)がいまいちだ」
「キャブは問題ないぜ。ピストンも順調だし。なぜだろう?」
「もう一度100Rを外側一杯から攻めてみるよ」
裕はそう言うとステアリングを素早く切って勢い良くコースに飛び出した。通称100Rと呼ばれる富士の名物コーナーをエスハチは外側一杯にノーブレーキで見事に走り抜けて行く。そのスピードは他の車と比較しても際だっていた。
エスハチはスピードはあるがもともとエンジンパワーがあまりないため、コーナーでは一度減速して最短距離のインをギリギリに回りアウトで一気に加速して抜けて行くのが常識だった。 しかし、裕のエスハチだけはすべてのコーナーをアウトコースギリギリにノーブレーキで抜けて行く。が、その後のストレートではエスハチ本来のスピードが伸びず普通の、いや並み以下のレベルの車になっていた。
正面スタンドの片隅のピットで30歳前後のメカニック風の男が裕の走りをずっと目で追っていた。
「なんかへんなエスハチだな。なんであんな早いスピードで100Rの外側回って、直線で減速しているんだろう?」
髪の毛を七三にきれいに分けた一見実直なサラリーマン風の男は、ホンダのオートバイ代理店を国分寺で営む神山靖政(こうやま やすまさ)といい、この時30歳だった。今日は彼の数少ないお得意さんの一人から頼まれて、スポーツ走行のテストにたまたま同行してきていた。ホンダ車の事ならすべて頭に入っていると自負する神山は頭をひねった。
「なんでパワーがないのにあんなスピードでコーナー回れるのだろう? なんでスピードがあるのに、ストレートであんなに遅いんだろう?」
少し興味を持った神山は客の走行中を見計らって裕たちのピットを覗いてみた。止まっているエスハチの周りにドライバーを中心にして3人の若者が集まり、何やら真剣に話し合っていた。
「まだ2分35秒か。おかしいなあ。別にどこも悪くないんだけどなぁ…」
「でも確かにストレートのフケ(伸び)はいつまでも悪いよなぁ」
見たところいかにも学生風の若者たちだった。ヘルメットを脱いだドライバーの若者は、まるで博多人形のように色が白くスッと横長に切れた涼やかな目をしていた。髪は当世風の耳の下まで伸びた長髪だった。女性のようなまっすぐなきれいな黒髪をしていた。ヘルットを脱いだばかりなので、うっすらと額に汗を浮かべ、頬は薄赤く上気していた。4人ともいかにも苦労知らずの「いいとこのボンボン」に見えた。後ろから近寄って運転席の裕に横から声をかけた。
「君、ずいぶんがむしゃらに走るね。でもコーナーの捌(さば)き方は抜群だね」
知らない男にふいに話しかけられて裕は少し身構えた。でもその男が油で所どころ汚れたメカニックの作業服を着ていたのを確認してすぐ安心した。どこかのチームのメカニックだと悟った裕はすぐに答えた。
「直線のタイムが全然伸びないんですよ」
「ショップは何って言ってるんだい?」
「これ以上は良くならないって。あと僕の腕が悪いんだって。失礼しちゃいますよね」
ペロッと舌を出し照れ笑いを浮かべながら裕は言った。育ちの良い若者特有の屈託のない笑顔になぜか魅力を感じた神山は、
「俺がみてやろうか?」と言った。
裕は顔をパッと輝かせて
「いいんですか? 是非、お願いします」
車の窓際に立って二人のやり取りを聞いていた3人も笑顔で頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
しばらくフロントカバーの中に頭を突っ込んでいた神山は顔をあげて裕に言った。
「ギア比がでたらめだよ。これじゃあいくら頑張ってもストレートで伸びっこないよ。俺のところに同じエスハチがあるから乗ってみるかい?」
4人が一斉に顔を見合わせた。裕がおそるおそる聞いた。
「もし、こわしちゃったらどうなるんですか?」
「その時はその時だ。俺が言ったんだから仕方ないよ。君に請求書は回さないよ」
裕はこれ以上ないという幸せそうな笑顔で
「有難うございます。それではマシンの限界までやらせてもらいます」と、また舌をペロっと出して答えた。
「オイオイ、現金な奴だなあ。本当に壊す気かよ?」と、5人で笑った。
神山のエスハチがコースに運ばれてきた。裕は顔を少し赤らめて神山の作業をじっと見守っていた。神山のオーケーのサインを見るや否やコックピットに素早く乗りこむとステアリングを力ずよく握りしめ、その感触を確かめてから素早くコースに出た。すべてが裕のエスハチとは違っていた。ステアリングも、アクセルも、ブレーキも、裕の要求通り、思いのままに小気味よく、即座に反応(レスポンス)してくれた。まるで自分の手足のようだった。
(本物のプロの調整はこんなに違うんだ)と、裕は心の中で舌を巻いた。
エスハチは100Rのコーナーをさっきと同じノーブレーキで外側ギリギリを切り抜け、直線に入ると先ほどとは打って変わった素晴らしい加速で走り去っっていった。
「すげえ、2分30秒!」
「えっ、まじか?」
裕は神山のエスハチで一週目に一気に5秒ほどもタイムを縮めた。しかも神山は本当に壊されてもたまらないので、前もって裕には「この車もまだ調整途中だから9500回転以上は出さないでくれ」と指示していた。本当はそれ以上出しても全然問題ないのだが、まだ素人のように見える裕の腕をまだ信用できなかったからだ。素直な裕はこれを忠実に守り、9500回転になったらすぐにアクセルを緩めた。それでも週回ごとにどんどんタイムを短縮して行った。
(この子は走れる。天性の何かを持っている・・・)神山は胸の中で唸った。
裕はその場ですぐに自分のエスハチのチューンナップを神山に頼み、翌日から彼らの神山モーターズ詣でが始まった。裕の車でボーグルズの4人は殆ど毎日のようにやってきては「あそこが悪い、ここが悪い」と色々調整の要求をしてきた。裕が次に出る予定の5月3日の日本グランプリまであと2週間余りしかない。神山も日本グランプリに出るチームから他にも注文を受けていたので、その時はいつにましてかなり忙しかった。でも裕の純真無垢で真剣な顔をみるとどうしても(明日みるよ)とは言えず、彼らの要求を優先せざるを得なかった。神山を中心に潰れた足周りを取り換え、エンジンをオーバーホールした。裕たち4人もワイワイいいながら手伝った。
裕のエスハチは神山の手によってまったく別の車に仕上がっていった。調整が終わるとまたみなで富士に出かけてテスト・ラン。終わるとまたすぐに国分寺に戻ってメンテナンス。そしてまた富士へ。5月3日までこのスケジュールが判で押したように毎日繰り返された。そして裕のラップタイムは日ごとどんどん縮まっていった。
5月3日、富士スピードウエイで開催された日本グランプリは快晴の素晴らしい条件のもとで行われた。メインレースに登場するニッサンR380やトヨタの人気の大排気量車がお披露目されるというおかげで、日本中の車が富士スピードウエイに集まったと思われるほど大混雑を極めた。ゴールデンウイークの真只中ということもあり東名高速道路は朝から大渋滞だった。御殿場インターチェンジからはもちろんのこと、大井松田インターチェンジからも道路という道路は車という車でびっしりと埋めつくされ、身動きできない状態だった。
裕たちボーグルズ4人は、こんなこともあろうかと前の晩からサーキットの近くの民宿に泊まって準備していた。短い四脚の卓袱台(ちゃぶだい)を囲んで4人は翌日のクラブマンレースの作戦を練っていた。クラブマンレースはメインレースの前座的役割のレースだった。しかし前座とはいえ40台近くが一度に出走する、裕にとっても他のメンバーにとっても初めてのビッグレースだった。みんな一応に興奮していた。
卓袱台の真ん中には大きな富士スピードウエイのコース地図が置かれ、地図の周りには飲みかけのプラッシーが4本、それと食べかけのポテトチップスとポップコーンが散乱していた。ポップコーンを一握り勢い良く口に放り込んで裕が言った。
「やはりポイントはこの40台の中でどう動くかだよ。富士はもう隅から隅まで全部知っているつもりだけど、40台一緒のレースは初めてだから」
「裕、お前の十八番(おはこ)のクラッシュだけは絶対避けろよ。貰(もら)い事故は仕方ないけど、なるべくアテンション・プリーズで頼むぜ。今回の目標はまず無事完走だ」今やチーム風戸のチーフ・メカニックの役割を担っている芳人が言った。
「分かってる。まずは予選走行の順位が大事だ。それとコーナーはどの車も自由に動けないはずだから、もしそうなったらコーナーの勝負は捨てる。ストレートでどれだけ差をつけれるかに勝負をかける」裕はプラッシーをグビリと一口飲んで地図のストレート・ラインを赤鉛筆で軽くポンポンと叩いた。4人の瞳はどれも生き生きと輝やき、若い生命観に満ち溢れていた。
翌朝早くクラブマンレースの予選走行が始まった。裕のエスハチのゼッケンナンバーは14番。予想通り40台の車がコース上にひしめきあい、裕もまともに走る事は出来なかった。結局予選走行は後ろをノロノロと走らざるを得ず、40台中28位になるのが精一杯だった。
本戦は1週6kmを15周する総計90kmのレースだ。コーナー渋滞が原因で予選でつまづいた裕は当然いつになくはるか後方からのスタートとなった。本線は台数が絞られバラけたので、裕は得意のコ―ナリングで次々と前の車を追い抜いて行き、6週目までにはすでに15位にまで上がっていた。 まだ残りの周回はたっぷりある。(勝負はこれからだ)裕の闘争心が腹の底から湧きあがってきた。いつも走り慣れた100Rのコーナーが迫ってきた。このコーナーのさばき方は体がすでに骨の髄まで覚えている。いつものようにコーナーのアウトに差し掛かる手前で軽くブレーキングをした。いつも通りのタイミングでポンと軽く踏んだはずだった。しかし、あっという間に裕のエスハチは激しくスリップした。レース場での走りには何が起こるか分からない。ほんの小さな小石でも、たった1滴のオイルでも、運が悪ければ常に限界ぎりぎりで走っているレーシングマシンには命取りとなる。裕もそんな事は百も承知していた。でも頭で分かっていてもとっさの出来ごとに体が固まってしまい動かなかった。
「ヤバイ! ぶつかったらおしまいだ」
ハンドルが全く効かない。100分の何秒かの間隔で裕のエスハチはクルリと後ろ向きになった。と同時に後ろ向きのまま氷の上を滑るようにサーっと走りだした。こうなるとドライバーはもう何も出来ない。車の意志に身を任せるしかない。
(お願いだから他の車には当たらないでくれ! )
心の中で一心に祈った。もう体はぶつかる事を予見して自然と前かがみになっていた。それらすべてがほんの一瞬の出来事だった。
「死ぬ!」
感覚的にこの言葉がすぐに脳裏に浮かんだ。裕は、確実に迫り来る死の恐怖を瞬時に強く予感した。背筋が凍りつき、体中の毛が逆立つのがはっきりと分かった。その零コンマ何秒の間に今までの出来事がぐるぐると頭の中を駆け巡った。
どーん。
鈍い音を立ててエスハチは後部から高く積み上げられた土手に激しくぶつかった。思っていたより衝撃はたいしたものではなかった。喉から心臓が飛び出そうになり、胃液が口の中まで逆流しその苦さで思わず吐きそうになった。おそるおそる目をゆっくりと開けてみると、エスハチはお尻を大きく茶褐色の土手に乗り上げ、深く頭を下げてまるでお辞儀をしているように止まっていた。車の周りには茶色の土煙がもうもうと舞いあがっていた。
「どうだろうか? 動くかな・・・」
半信半疑でイグニッションを回すとエスハチのエンジンは心地よく答えてくれた。
(よしっ。これなら行ける)
裕は猛然と再スタートを開始した。
(生まれて初めておしっこちびったぜ)
ハンドルを握る手はまだ小刻みに震えている。まだ死の恐怖は消えていない。それより落ち着いた今の方がより恐怖心が襲ってきた。しかし、それと同時に体の芯を突き抜けるようなエクスタシーに近い不思議な感覚にも包まれていた。
(何だろう、この感覚・・・)
何か表現できない衝動に駆られていた。
「ウオーッ」
アクセルを全開に踏み込みながら、いつのまにか大きな雄叫びを上げていた。つい先ほど味わったばかりの死の恐怖とそれと相対する果てしないエクスタシー。一度味わったらもう抜けられない麻薬のような、体の芯がしびれるような感覚。それは裕がまさにレースの神髄(しんずい)に触れた初めての瞬間であった。しばらくするとエスハチはバリバリバリという凄まじい唸り声を後ろからあげ始めた。
(うん? なんだ?)
裕の命を救ってくれた後部のマフラーが先ほどの衝突で完全に壊れていた。裕はすぐにピットインして芳人にSOSを頼んだ。
「やばかったな、裕。俺、死んだかと思ったぜ。お前、腕も一流だけど悪運も一流だな! 」芳人が懸命に作業しながら裕に向けてパチッとウインクをした。メカニック3人の懸命な応急手当のおかげで裕はすぐにコースへ復帰した。すでに順位は15位から24位まで落ちていた。その場しのぎの応急手当の為、裕のエスハチはしばらく走るとまたすぐに激しい唸り声をあげ始めた。限界ぎりぎりまでなんとか「エスハチをだまし、だまし」走り、「これ以上もう無理だな」と、いうところでまたピットイン。それからみなで急いで応急手当。そしてまたコースへ戻る。こんなことを何回も繰返しながら14週を終えたゴール地点ではなんとか15位まで挽回していた。クラス別成績ではIクラスの4位だった。
この日の富士スピードウエイで一番レースをエンジョイしたのは間違いなく裕とボーグルズのメンバーだった。目の肥えた観客は裕がピットインを繰り返しながらも順位を着実に上げていた事を見逃していなかった。
「ナイスフアイト、14番! いい走りだったぜ!」裕は耳元まで真っ赤にしながら恥ずかしそうに手を挙げて答えた。
(こんな世界があるんだな)
今まで生きて来てこんな晴れがましさと気持ちよさを味わったことは一度もなかった。周囲6kmの富士のコースはどこを見ても観客で溢(あふ)れかえっていた。みんなが裕たちレーシングドライバーとそのチームスタッフに大声で心からの熱い声援をかけてくれた。さらにレ―スは戦う車の数が多ければ多いほど、スリリングで面白いということも体で感じとった。
今日のレース中、裕は運転する自分を横で冷静に観察しているもう一人の他人のような自分を感じ取っていた。さらに今日、富士スピードウエイを走ったドライバーの誰よりも正確にかつ敏速にマシンを操ったという感覚を感じていた。
(駄目だ。もうやめられない)
東京へ戻る途中、チームメンバー全員で焼肉屋に入り腹ごしらえをした。
「おばちゃん、タン塩とカルビ、それからロース10人前ずつね」
「あとキムチとサンチュー、大盛りでお願いします」
「それにごはんも大盛りで4人前ください」
「あと玉子スープ4つね。それから麦茶もおかわり!氷入れてね」
旺盛な食欲で肉汁したたる焼肉と炊きたてほかほかの白米をもりもりと頬張りながら、今日のレースの興奮を大声で語りあった。特に普段それほどおしゃべりでない裕がこの夜は一人でよくしゃべった。ボーグルズのみんなは裕の興奮を良く分かっていたので、あまり口を挟まずに
「うん、うん」と、ただうなずいて聞いてあげた。死の恐怖とエクスタシーの味をしめてから、もう裕の頭の中はレース一色に染まっていた。
5月の日本グランプリ以降、この年に裕は新たに8回も富士でレースに参加している。わずか19歳の大学生が個人出資でこれだけの事ができるのは尋常ではない。神山に支払うチューンナップ代金や日々の修理代および備品の購入代金などで一月30万円以上があっという間に消えた。更にレースがある月では、そのエントリー代や練習走行代が別にかかった。レース毎にダンロップやグッドイヤーのレース仕様の特注タイヤ代、レースを手伝ってくれる仲間たちの食事代や交通費まですべて裕が払った。
また富士で開催されるビッグレースの時は前日から宿泊する「前乗り」が必要だった。メンバー全員の宿泊費ももちろん裕が負担した。これらの費用は月に5~60万円は軽く超えていた。こうなると学生の趣味の域を遙かに越えていた。最初は母の瑞枝からねだって貰う小遣いの範囲内でなんとかすませていたが、さすがに瑞枝一人の手には負えなくなってきた。もちろん裕もこの事は充分に分かっていた。
瑞枝が健二に相談し、すぐに裕と健二との話し合いの場がもたれた。その時裕の腹はすでに決まっていた。
(俺はプロのレーシングドライバーになる。うわついた気持ちは一切ない。本気で命を張ってレーサーという仕事を全うしたい)
数日後の夜、風間家の自宅の居間に健二と裕の二人が向かい合って座っていた。裕は今の自分の気持ちを素直に説明した。健二も
「レースはもうやめろ」と、頭ごなしに反対するタイプではない。まずお互いの考えと気持ちを相手が納得するまで話し合う事にした。
健二から口火を切った。
「はっきり言うとお父さんもお母さんも君のレースには反対だ。特に君がこれからやろうとしている本格的なレースはあまりにも危険過ぎると思う。今は大学生だという事をもう一度自覚して、勉強に身を入れるべきだと思う。どうだろうか?」
論理的にも健二の言う事は正論であり、感情的にも子を持つ親として当然のことだった。裕もその事は充分に承知している。ただし、いまや完全にレースの魅力に憑りつかれてしまった裕は、今更レースをやめる事は出来なかった。今の感情を健二に素直に説明し、理解してもらうしか術(すべ)はなかった。
「お父さんの言う事は良く分かります。お母さんの僕を心配してくれる気持ちもとても感謝しています。でもこれだけは分かって下さい。今まで色々なことに手を出してきましたが、レースこそ僕が本当に心から打ち込める唯一のものなんです。もちろん大学の勉強もしっかりやります。レースにお金がかかる事も良く分かっています。レース以外の無駄遣いは決してしません。中途半端な気持ちでやるつもりもありません。わがままで言っているつもりもありません。レースに命だけでなく自分の全てをかける今の気持ちは決して変わりません」
「レースに命をかけるというのか?」
健二は絶句した。
「レースが危険なスポーツだ、と言う事は分かっています。レーサーだけでなくレースに携わるすべてのスタッフが皆分かっています。だから僕たちは死なない為に常に運転技術を磨きます。またメカニックたちも事故を起こさないように細心の注意を払い、日々メカの技術を追求し、常にベストのマシン調整をするように努力を惜しみません。僕たちは死ぬためにレースをするのでなく、生きて勝負に勝つためにレースをしています。それでもやむを得ずレースで死ぬ事もあるでしょう。その時の覚悟は出来ています。お父さん、お願いします、せめてあと5年間は思い切りレースをやらせて下さい」
裕は最後には目にうっすらと涙を浮かべ、話す声は震え、時折嗚咽(おえつ)さえも漏らした。論理的な言いわけを一切することなく、素直な自分の感情をうそ偽りなくぶつけてくる裕の気持ちが痛いほど健二には伝わった。
19年間もずっと天塩(てしお)にかけて育ててきた心から愛する可愛い息子だ。この子の性格は一から十まですべて把握している。そんな息子が生半可な気持ちで泣きながら頼みごとを言う筈がない。
しばらく重苦しい沈黙が二人の間に流れた。裕は相変わらず燃えるような意思を、まっすぐな熱い視線で健二に訴え続けていた。目をつぶり腕を組んでいた健二がようやく重い口を開いた。
「分かった。認めよう。ただし、お父さんとお母さんはあくまでレースには反対だと言う事は忘れないで欲しい。それから大学の勉強をレースのせいで怠ける事は絶対に許さない。あと今後一切お母さんにレースのお金をねだってはいけない。お父さんに直接書面で出しなさい。納得して認められる物にはお金は出す。ただし、無駄使いは許さない」と、一応釘は刺したものの断腸の思いでレースを認めた。
(瑞枝にはいえないが、自分だけは万が一に備えて覚悟はしておこう・・・)と、健二も腹をくくらざるを得なかった。
自分の部屋に戻った裕に、喜びの笑顔はなかった。お父さんから最低限の資金の援助は確保した。しかし、レースは家族全員が反対であると明確に宣告された。つまり、可愛い道楽息子の我儘を結果的にお金の面だけで受け入れただけのことだった。そんな事は最初(ハナ)から分かっていた。裕も5月の日本グランプリで身近な「死」を生々しく体感したばかりだし、この年の4月にもフライング・スコットの愛称で世界中から人気があった天才F1ドライバーのジム・クラークもあっさりレース中に事故死したばかりだった。世界では一流のレーサーが毎月のように死んでいた。
当時、世間一般の人々はモーターレースは頭のいかれた若者だけがやる「死」に一番近い、金持ちのボンボンの道楽と考えていた。本物のレースを一度も見た事がない両親が同じように思うのは無理がない事だった。裕は、いつかプロのレーサーとして家族全員が認めざるを得ないような結果を出さねばならないと実感した。
勿論レースで結果を出しても両親がそれで裕のレースを認めるわけではないだろう。両親は危険なレースをやめることを強く望んでいる。しかしレースの道を選んだ裕に出来る唯一の事はレースに自分の全ての力を向けるしかなかった。
(もう、ただ楽しい、面白いだけでは済まされない。レースで誰もが認める結果を出そう。いつまでもアマチュア気分では駄目だ)
健二から最低限の資金援助の確約を得たが、両親がレース場に観に来る事は一度もなかった。健二との話合い以降、裕のレースぶりは明らかに変わった。ただがむしゃらに運転する事がなくなり、クレバーな運転に徐々に変わっていった。コースをレース直前にゆっくりと歩き
「どこが荒れているか」
「小石は落ちていないか」
「オイルの落ちこぼれはないか」
などのアスファルトの路面チェックも自らの目で丁寧に行った。またレース毎のライバルの走りを事前にビデオに撮り、何回も見直し相手の癖を研究した。メカニックもボーグルズのメンバーだけでなく神山モーターズからプロのメカニカル・スタッフを雇い入れた。
次第にレース結果も目に見えて変わって行った。その後の8戦のうちドライブシャフトとミッションの破損で2度のリタイアがあったものの、残り6戦はクラス優勝1回と2位、3位が各々1回ずつ、個人総合で3位、4位、5位という素晴らしい成績を残した。クラス別の富士チャンピオンシリーズには12戦中5回出場し、年間成績3位に表彰された。年末までには誰もが認める一人前のプロのレースドライバーになっていた。
このころから裕の練習は周囲が舌を巻くほど熱を帯びてきた。裕の活躍を知り神山モーターズにはエスハチ・オーナーでレースを楽しむトップクラスのドライバーたちが徐々に集まってきた。裕は彼らと富士で模擬レース方式の練習を何度も繰り返した。特に得意のコーナリングは磨きをかけた。エンジンの限界ギリギリまで車のポテンシャル(潜在能力)を引き出せるようになった。しかし前の車を追い抜くテクニックにはまだ甘さが見えた。まずスリップストリーム(前の車の後ろに数センチ間隔でつけること)の迅速なイン・アウトの練習を何度も繰り返した。そしてターゲットがコーナーで少しでも外に膨れたら狭いインの隙間を一瞬にして抜き去るテクニックを身につけた。
次の目標は10月20日、富士で行われる第10回クラブマンレースだった。それに備えて裕はいつものように富士で最終調整を行っていた。メインコースの横で二人の男が裕の走りをじっと見守っていた。一人は神山、もう一人は神山の古くからの友人の田中健二郎だ。浮谷東次郎の伝説のレースで3位だった、あの「いぶし銀、健二郎」だ。レースから3年がたっていた。すでに35歳の健二郎だが、まだ現役で頑張っていた。
健二郎は裕の走りをじっくりと観察した。コーナーの走りは見事だ。だがブレーキングのテクニックが出来ていない。ただ生来のセンスだけでコーナーを攻めているだけだ。タイヤのグリップ性能を研究し、それを生かす技術が身につけば格段にタイムは縮められるだろう。
「靖(やす)ちゃん、あのエスハチお前のところの子だろ? 100Rのコーナー、凄い走りするじゃないか? どこのワークスドライバーだい? 」
「あぁ、あれは風戸っていう大学生だよ。まだ19歳だったかな? 」
「嘘だろう? あれが子供の走りかよ。コーナーの走りはあの東次郎と遜色ないぜ」
「あぁ、あいつは凄いんだよ。今、うちのメンバーではずば抜けてるよ」
裕がピットに戻ってきた。神山と一緒にいた健二郎に気づき軽く顔を下げて挨拶をした。もちろん裕は東次郎のレースで3位だった健二郎の事は良く知っていたし、尊敬するレーサーの一人でもあった。
「風戸君、いい走りするねぇ。今度うちに遊びに来いよ」
健二郎はタキレーシングの名刺をポケットから取り出し裕に渡した。そして車から降りた裕とドライビングについて話し込んだ。小コーナー手前のピンポイントのブレーキングとほんの少しだけアクセルを緩めることを的確にアドバイスした。
「そうしたらもっとタイヤのポテンシャルが引き出せるよ」
裕は何回もうなずいて熱心に聞き入った。それからコースに出て健二郎のアドバイスを納得いくまで繰り返した。
「あの子、素直でいいねえ。うちのチームに欲しいくらいだよ。どうよ? 」
「駄目だよ、健さん。彼は今うちの一番の看板スターなんだから」
「だろうな」健二郎は「にやっ」と笑って、懸命にコーナーを攻める裕の車をまぶしそうに見つめた。
10月20日、クラブマンレースの日を迎えた。富士の1週6kmを20週するレースだ。裕は予選15位の成績だった。タイムも2分24秒87と平凡だった。しかし本戦になると裕の走りは豹変した。健二郎のアドバイスで会得した絶妙のコーナリングで前の車を小気味よく抜きさっていった。そしてついに2分22秒1というエスハチの富士でのコースレコードを叩き出した。
「末恐ろしい子だ。」神山はピットで唸った。
(あの子はきっとすぐに日本を代表するトップレーサーになるだろう。いや、世界でも通用するかもしれない)
レースは中盤を迎えていた。12週目を迎えて裕はすでにトップ集団を射程圏にとらえていた。矢継ぎ早にミッションを操作し、次々に獲物を追い詰めていった。14週目に差し掛かった時、ミッションがスムーズに入らなくなった。ギアを入れ替えてもそこで止まらず流れた。このままでは思うようなドライビングは出来ない。
「ちょっとやりすぎたかな?」
裕はすぐにピットインした。神山が調べるとミッションはものの見事に擦り切れ、手の打ちようがなかった。コースレコードを叩き出すも無念のリタイアだった。しかし、このレースで裕の名前は一気にモーターレース界に知れ渡った。
「エスハチの風戸」
裕が富士で走っていると誰もが必ずその走りを振り返るようなった。もはやエスハチの走りで裕の右に出る者は日本にいなかった。
第2章 完