風になったアブラハム 第7章 勝利の女神

第7章 勝利の女神 昭和46年

風戸レーシングのCAN・AMレースへの準備が着々となされていった。何しろ日本人初の挑戦なのでマスコミも大きく注目していた。猪瀬を中心に用意周到な準備計画が練りに練られた。資金面では今や莫大な財力を誇る父と二人の叔父が後ろに控えている。金の心配はもういらない。あとはCAN・AMでの現地スタッフの布陣をどうするかだ。女房役の猪瀬は二つ返事でオーケーしてくれた。「おとうさん、家族いるのに一緒にアメリカに行って大丈夫かな?奥さん怒らないかな?」裕は9歳年上の猪瀬をいつも「おとうさん」と呼んでいた。「うちの奥さん、子供と一緒にシカゴに行けるって大喜びさ。すでに英会話の本買って勉強中だよ」受話器から猪瀬の明るい声が聞こえた。「ヒロチ、サンチュー! 」と猪瀬の5歳なったばかりの娘、由美の声が猪瀬の後ろから聞こえ裕の笑いを誘った。猪瀬は下準備の為すぐ一人でアメリカへ飛んだ。目的はカール・ハースに会うためだ。カール・ハースはシカゴでイギリス製ローラ・カーズの輸入総代理店の社長で、CAN・AMレースのすべてを知り尽くしていた、いわゆるアメリカのCAN・AM界の顔役(ドン)の一人だった。故に風戸レーシングの北米進出とCAN・AM挑戦には絶対不可欠なパートナーだった。最初の計画ではポルシェ908Ⅱを日本のGC(グランドチャンピオン)シリーズとCAN・AMシリーズの両方で使う予定だった。しかしそれを聞いたハ―スは「イノセさん、レース毎に日本と北米の間をポルシェが行ったり来たりするのは時間とお金がたくさんかかります。無駄ですし、現実的ではありませんね」と説明し、次に、「イノセさん、ポルシェをCAN・AMで一シーズン通して走らせるのはとても大変ですよ。北米でポルシェのパーツを手に入れるのはとても難しいです。そしてとてもお高いです」最後に「イノセさん、うちのローラT222を買って下さい。パーツもすぐ手に入るし、とても楽ですよ。猪瀬さんだから特別にお安くしときますよ!」(チェ、こいつ商売うまいな)と、猪瀬は思ったが、良く考えると金だけの問題だ。金をけちらなければ確かにベストな選択に思われた。早速裕に電話で相談すると裕も「それがベストだと思う」と、すぐに同意してくれた。こうしてポルシェ908Ⅱは日本のGC(グランチャン)専用に走らせ、ローラT222はCAN・AM専用とした。あとはポルシェでなく裕が日本とアメリカを行ったり来たりする事になった。猪瀬は早速ハ―スにローラT222を購入すると伝え、そのままシカゴに残りレースに向けてのチームの体制作りを開始した。まず日本から頼れる若手のメカニック高坂一夫(こうさかかずお)とマネージャーの稲垣忠史(いながきただし)を呼び寄せた。稲垣は英語はすこぶる堪能だが渉外担当が主な業務になのでしょっちゅ北米やカナダを飛び回り、シカゴにはあまりいられなかった。猪瀬と高坂はあまり英語が得意ではない。多少分かるとはいえ、ネイティブのスピード英語にはついていけなかった。ましてエキサイトした時の彼らの早口でまくしたてる英語は二人にはまるでチンプンカンプンだった。そこで猪瀬はハースと相談し通訳も兼ねて現地のメカニック、ジョージ・パフを雇い入れる事にした。パフは子供の頃軍人だった父親の関係で両親と横須賀の米軍基地に長く住んでいた。だから日本語はまったく問題なかった。そしてとりわけ日本贔屓(びいき)だった。猪瀬がシカゴでCAN・AMの準備をしている間、裕もまた日本GC(グランドチャンピオンシップ)に備えて練習に余念がなかった。このあと裕は4月末から6月初旬にかけてGCを含め3戦を予定していた。最初の2戦は半年のブランクの影響もあり結果は芳しいものではなかった。しかし6月6日の富士グラン300マイルは2ヒ―ト制で行われ、第一ヒート4位、第2ヒ―ト1位、総合で2位となった。今まで不調だったポルシェ908Ⅱだったが、ようやく満足のいく結果が出せた。総合2位という結果に満足した裕は翌朝早くCAN・AMの第Ⅰ戦が行われるカナダのモスポートパークへ羽田から一人で旅立った。・・・裕がカナダに旅立った6月初旬、中野雅晴はすでにトヨタを離れ、エドワーズ(実質は福澤エミ)の援助を得てプライベーターとして活躍していた。この春、日大法学部を首席で卒業した雅晴は3年後の25歳でレースを引退し、父が経営する諏訪湖のホテルを引き継ぐ事をすでに約束していた。「それまでは目を瞑(つぶ)る。自由にレースはやって良い」と、父から確約を得ていた。雅晴も心の中で裕と同じく最終目標はF1と決めていた。その過程で裕はCAN・AMを選択し、雅晴は国内FL500を選んだ。FL500とはいわゆるジュニアフォーミュラレースの一つで排気量は500ccと軽量だが出力の重力比がF1とまったく同じだった。それゆえ雅晴は「F1へのいい練習台になる」と、考えFL500を次のステップに選んだ。TMSC(トヨタ)を離れてから、雅晴はFL500のレースを全部で12戦走った。戦績は優勝3回、2位2回、残りはすべて5位以内という素晴らしいものだった。リタイアは雅晴らしく一度もなくすべて完走だった。今までの雅晴は完走率だけは高いが、優勝はなかなか出来なかった。しかしトヨタを辞めてから雅晴の走りが明らかに変わってた。

雅晴がFL500で3回目の優勝を遂げた後、オートスポーツの記者が取材に来た。「中野さん、最近レース内容がかなり変わってきましたけど、何か特別な理由があるんですか?」「一番の理由は心境の変化ですかね。レースに出る以上、プロは所詮勝たなければ意味がないと最近強く思うようになりました。僕も風戸みたいに先は海外進出を考えています。風戸は今アメリカで頑張っているけど、僕は将来ヨーロッパでF2をやろうと考えています。まだ僕も若いし、あと3年くらいは思い切りレースをやるつもりです。そのあとは旅館の番頭でもやりますよ」と、笑いながら長い髪をかき上げた。雅晴は以前からその美しい容姿とエドワーズ専属のスタイリストという洒落た肩書から女性週刊誌などで何回も取り上げられてた。裕はその華々しいレースの実績から今やモータースポーツ界のスターになっていたが、雅晴はレース実績よりその女性的な繊細な容姿とフアッション・デザイナーというもう一つの肩書の方がむしろ先行し、ポスト福澤幸雄(サチオ)的な立場になりつつあった。ところが最近レース結果がとみに良くなったので、ますます若い女性たちからの支持が増えてきた。女性週刊誌や写真週刊誌のFocusにも雅晴がエドワーズで仕事をする様子や、トレーニングで皇居の周りをジョギングする姿が頻繁に載るようになっていた。雅晴も裕ほど目立ってはいなかったが、ある意味時代の寵児になりつつあった。・・・1971年6月13日、裕はローラT222シボレーでCAN・AM第1戦のカナダ・モスポートパークにいた。ローラT222シボレーは700馬力で8100ccのシボレーV8エンジンを搭載したまさにお化けマシンだ。アクセルを一踏みすれば一瞬にして時速250kmに達した。直線コースでの最高時速は350kmだ。ハ―ス陣営の現地スタッフの誰もが、はるか遠いアジアの果ての小国から急にやって来たアメリカでまったく無名の裕に期待する者は誰もいなかった。「あんな痩せっぽちでヒョロヒョロの東洋人があのお化けマシンのローラT222を乗りこなせるわけがないさ」アメリカ人メカニックたちがピットの陰でしきりに噂していた。社長のハ―スももちろん口にこそ出さないが心の中では彼らと同じ考えだった。だから彼はチーム・ハ―スとして、最新型でよりパワフルなローラT260の方をこの年のF1のワールド・チャンピオンになるジャッキー・スチュワートに託していた。ジャッキーは裕より9歳年上の今年31才のスコットランド人だ。普段はF1レーサーというよりはローリングストーンズのメンバーみたいな派手な服装をいつも好んでしていた。耳が隠れる程の長髪、上は派手なカラーシャツを着込み、下は裾が靴が隠れるほど広いベルボトム・ジーンズ、靴は踵高がゆうに15cmはあるだろうロンドンブーツといういで立ちだった。CAN・AMレースはアメリカの中で一番人気があり、その賞金もかなり高額なものだった。それゆえF1のトップレーサーの中には高額な賞金目当てでCAN・AMに出場する者が多数いた。ジャッキー・スチュアートもその一人だった。予選が始まった。裕はカナダに来てから猪瀬と何回も練習走行を重ね、お化けマシンのローラT222をすでに手の内に入れていた。「予選タイムは1分25秒出れば上出来だよ」と、メカニックのジョージ・パフが裕にいっていた。しかし裕は予選の1回目でなんとパフの予想を3秒も下回る1分22秒を叩き出した。初めての挑戦で、出走車32台中、予選9位の成績は素晴らしいものだった。現地スタッフの裕たちチーム風戸をみる目の色が一変した。「この東洋人たち、只者じゃあない! 」カナダでの2戦が終了しチーム風戸のメンバー全員がシカゴのハ―スのガレージに戻っていた。ある昼下がり、ガレージの横で猪瀬とチーム風戸のメンバー数人が卓球をしていた。学生の時、卓球部の部長(キャプテン)だった猪瀬がシカゴの古道具屋の隅にあった古い卓球台を見つけ暇つぶし用にガレージの隅に置いていたものだ。猪瀬の卓球の腕はずば抜けており、チーム風戸のメンバーは誰も猪瀬にかなわなかった。裕はレースに関してはまさに天賦(てんぶ)の才能を有していたが、それ以外のスポーツでの運動神経はあまりよくなかった。猪瀬と試合をするといつもコテンパンにやられた。「お父さん、たまには手を抜いてよ。全然面白くないよ」「駄目、駄目、裕くん。俺が手を抜いて勝ってもちっともうれしくないだろう? 」と、言うとパチンと華麗なスマッシュを裕の目の前で決めた。そこへハ―スとジャッキーがチーム風戸のガレージにふらりと入って来た。「ヘイ、グレート猪瀬! 俺たちも入れてくれよ」若い時に卓球の経験があるハ―スが猪瀬に声をかけた。隣のジャッキーもやる気満々だ。彼らの卓球の試合はただの遊びではない。1試合5ドル(現在のおよそ2000円位)を賭けて勝負するのだ。先に11点取った方が勝ちだ。風戸チームの代表はもちろんエースのグレート猪瀬だ。猪瀬は最近現地スタッフからなぜかグレート猪瀬と呼ばれていた。その第一の理由は、トラブルの時猪瀬だけが三日連続不眠不休でマシン調整を平気でやってのけるからだ。このタフさにはさすがのアメリカ人スタッフの誰もが舌を巻いた。第2の理由は卓球の腕前があまりにもグレート過ぎたからだった。試合が始まった。最初の相手は社長のハ―スだ。さすがに卓球の経験者だけあって猪瀬といい勝負だ。でも最後は猪瀬に豪快なスマッシュを何本も決められあっけなく敗退した。次にF1ワールド・チャンピオンが腕を撫(ぶ)して登場してきた。「ハ―ス、俺に任せろ。イノセをコテンパンにやっつけてやる! 」ジャッキーは赤鬼みたいな物凄い形相で猪瀬の前に立ちはだかった。「ヘイ、グレート! 手を抜くなよ! さあ来い! 」F1レーサーだけに負けず嫌いの気質は半端ではない。ジャンケンでさえ負けるのは大嫌いだ。もちろん猪瀬もいっさい容赦なんかしない。現F1ワールド・チャンピオンの試合に現地スタッフがぞろぞろと周りに集まってきた。「グレート猪瀬! ジャッキーが今年F1で稼いだ賞金、全部

とっちゃえ!」と、裕が猪瀬にわざと英語で声をかけた。ジャッキーが裕を「きっ」と睨みつけた。裕はすぐ横を向いて知らん顔をした。猪瀬がポイントを取るたびにチーム風戸の全員が手を振ってお祭り騒ぎだ。ジャッキーはスマッシュを撃ち込まれ、大騒ぎされるたびにどんどん顔が赤くになっていく。しまいには頭からまさに湯気が上がりそうな勢いだ。猪瀬は大勢の目の前でジャッキーに1点も取らせることなく、コテンパンに打ちのめした。チャンピオンは5回猪瀬と試合をして全て完敗した。「ガッデム!(ちくしょう!) 」チャンピオンは真っ赤な顔で悔しそうにくしゃくしゃの25ドルの紙幣をポケットから出し猪瀬に手渡した。「レースの時もあんなに下手くそだったら、僕でもいつも勝てるのになあ」と、裕がサラリと言った。7月30日、CAN・AMで4戦を戦いぬいた裕は8月15日の富士GC第4戦富士インター200マイルに参戦するため一人で羽田に降り立った。裕が国際線の到着出口を出るとそこに親友の芳人が立っていた。相変わらず髪を長く伸ばし口髭を生やしていた。「あれ、芳人じゃないか! なんで羽田にいるんだよ? 」「わーっ、裕! そうか、今日帰って来たのか? 知らなかったよ。次は確か8月の富士グランチャンだったな」「うん。でもどうして芳人がここにいるの?」「従妹(いとこ)が今日ロンドンから一年ぶりに帰って来るので叔母さんに頼まれて迎えに来たんだよ。俺、車で来てるから裕もジョウジ(吉祥寺)まで送るよ。時間は大丈夫かい? 」「それは有難いな。どうせ家に帰ってもあと寝るだけだから暇だよ。ところでその親戚の子は何時の便で着くの? 」「彼女、もう羽田には着いてるんだ。たぶんもうバッゲージ・クレームで待ってると思うんだ。あと15分もしたら出て来ると思うんだけど・・・」しばらく芳人とアメリカでのレースの話をして時間を潰していると、大きな赤いスーツケースを引いて一人の若い女性がこちらに歩いてきた。芳人に気づくとはじけるような笑顔で大きく手を振ってきた。「芳人兄ちゃん。 久しぶり! わざわざ迎えに来てくれて

ありがとう」小リスのような顔立ちときれいな歯並びをした、とても愛くるしい女の子だった。彼女を一目見た瞬間、裕は胸が思わずキュンとなった。衝撃的な一目惚れだった。「由美子、一年見ない間にずいぶん大人っぽくなったジャン。

おっぱいも少しでかくなったみたいだなぁ」「芳人兄ちゃん、相変わらずH(えっち)ね」笑うと両頬に小さなエクボが浮かんだ。「由美子、紹介するよ。こちらがあの有名な風戸裕君。ほら、おまえがロンドン行く前に話したろう? まだ成蹊の4年の癖にプロレーサーで会社社長の風戸裕君だよ」「はじめまして。風戸裕です」顔を少し赤らめて裕が言った。「コイツは俺の叔母さんの娘の植村由美子。俺たちより1歳下だから21歳だな。由美子、こうみえて結構売れっ子のフアッション・コ―ディネイターなんだ。 ものすごく忙しくて、ものすごく儲けてるみたいよ」芳人がペロッと舌を出して笑いながら言った。芳人の紹介に照れ笑いを浮かべながら由美子が答えた。「はじめまして、風戸さん。芳人兄ちゃんから話は良く聞いています。よろしくお願いします」(なんて可愛い子なんだ。完全に僕のタイプだー )ぽーっと由美子に見とれている裕を見てカンのいい芳人はすぐにピンときた。(ハッハーン、裕の奴、由美子に一目ぼれしゃがったな)裕と由美子が各々大きなスーツケースを引きながら先に歩く芳人の後について駐車場まで行った。芳人がメルセデスのステーションワゴンの前で止まり、バックドアを開けた。芳人が由美子のスーツケースを押し込み、その隣に裕が自分のスーツケースを入れた。「由美子は俺の隣に座れ。裕は後ろでゆっくり休んでろ」由美子が隣の助手席に座り裕が一人広い後部座席に座った。「おい裕、疲れてなければ3人でメシでも食いに行かないか?由美子も行くだろう? 」「うん、行きたい。私、おなかぺこぺこなんだ」「もっ、もちろん僕も行くよ。ぼっ、僕もお腹(なか)ぺこぺこです」芳人は思わず運転しながら吹き出しそうになった。芳人こと、本名、石崎芳人(いしざきよしと)は小学校の時から裕の友達だった。家も風戸家に近く、成蹊中学、高校、大学とずっと裕と同じ道を歩んできた。お馴染みボーグルズのリーダーで高一の時の留年まで裕と一緒だった。芳人の父親は都内で大型のレストラン・チェーンを経営するやり手の実業家だった。芳人の母絹子の実家は井之頭線沿線の東松原の大地主だった。絹子は長女でその妹が由美子の母秀子だった。秀子はその後東京大学理学部教授の植村恒夫に嫁ぎ由美子を生んだ。由美子は二人の間の一人娘だった。小さい時から玉のように可愛らしかった由美子は二人の愛情をたっぷり受けて朗らかで笑顔の絶えない女性になった。その後、井の頭線の三鷹台にある中高一貫の立教女学園に進学した。高校1年生の時に友達のファション雑誌を見てデザインの仕事に強く魅力を感じた。その後フアッション雑誌をひたすら読んで、高校在学中にすでに将来デザイナーの道に進む事を決めていた。高校を卒業後大学には行かず秀子の勧めですぐにロンドンに渡り、デザインの専門学校でフアッションの基礎を2年間みっちり学んだ。その後日本に戻り大手のアパレル会社に一時勤めたが、両親の資金援助を得て独立し、今はフリーのデザイナー兼フアッション・コーデネイターとして日本とロンドンを拠点にして活躍していた。芳人も来年の3月には卒業なのに就職はせずにそのままプロのイラストレ―タ―の道を選んでいた。裕のポルシェの赤を基調にしたデザインは、すべて芳人の手によるものだった。その斬新でユニークなカ―イラストは裕のフアンの間では「石崎デザイン」としてすでに注目されていた。芳人のメルセデスは飯倉のホテル・オークラの駐車場に滑り込んだ。大きなスーツケースは車においたまま3人は手ぶらで別館のレストランに歩いて行った。「ここの海老フライがまた絶品なんだよ。裕、海老フライ大好物だからな。二人の帰国祝いに今日は俺が奢るよ。由美子も好きな

もん食べろ」「やったー!」由美子が顔を輝かせ、子供のように無邪気に喜んだ。それを見て裕が心の中で(可愛いなあ)と呟き、ボーっとみていた。食事が終わり、お腹がいっぱいになった3人はコーヒーを飲んでいた。と、その時芳人が手提げバッグから赤いイラスト原稿を取りだした。「裕、ちょうど良かった。グランチャン用のポルシェのニューデザイン見てくれよ」「へー、もう出来たんだ。どれどれ」図面にはコックピットの前に貼るH・KAZATOの大きなロゴ・ステッカーのデザインが書かれてあった。字体も芳人独特でいつもながら決まっていてカッコイイ。「裕、このHの下のピリオド良く見てくれよ」それは遠目に見ると「H・KAZATO」に見えるが、良く見るとHnaKAZATO」と書いてあった「うわーっ、いいねえ。これはおしゃれだわ! 気にいった」裕は大はしゃぎだった。横であまり内容が良く理解できていない

由美子が、笑顔で二人のやり取りを楽しそうに見ていた。芳人のスマートで手際の良い段取りのおかげで、この夜から裕と

由美子はすぐに付き合うようになった。お互いに今は「恋人もいないフリー」だという事を芳人がさりげなく確認させた。そういう事なら、「まずお友達から始めましよう」と、いう事になった。裕も由美子も「気があるのに気のない素振り」をするような下手な駆け引きをするタイプではない。お互い最初の印象が良かった事を素直に認めそれを伝えあった。裕の自宅が吉祥寺で由美子の自宅が池の上だった。どちらも井の頭線沿線の駅なので最初のデートは井の頭公園にした。二人で公園の池の前のベンチに座り、色々な事を話し合った。特に裕が知らない由美子のロンドンの話や、由美子が知らない裕のカナダやアメリカの話で会話が尽きることはなかった。二人とも多忙だったが時間が許す限り、井の頭公園や吉祥寺、下北沢、そして渋谷などでデートを重ねた。9月初頭のある日、二人は裕たちボーグルズのたまり場だった吉祥寺の純喫茶「モンツァ」にいた。「一年ほど前にドイツに会社のメンバーとポルシェの買い付けに行った時、数日だけ一人でミラノに行った事があるんだ」「一人で? 」「うん、モンツァってこの喫茶店と同じ名前の、ミラノの近くにあるサーキット場なんだ。そこでF2のレースがあってね、どうしても見たくて一人で見に行ったの。他のメンバーは都合つかなくてね」「私もミラノはミラコレ(ミラノコレクッション)の時、何回か行ったことはあるわ」「由美ちゃん、ミラノでタクシー一人で乗った事ある?」「さすがにイタリアはまだあまり慣れていないから一人で乗った事ないわ」「モンツァからミラノのホテルに帰る途中のタクシーで一度ひどい目にあった」「どうしたの?」「ホテルの近くに来た時、「右に曲がって」というつもりで“ライト”って何度もいってもまったく通じないんだよ。そのまままっすぐ行くんだ。それであわてて“ストップ”って言ってもまた通じないんだよ」「へー、ストップも通じないの? 困るわね」笑うと小さなエクボが浮かんだ。「あとでイタリア人のレース関係者に聞いたら、イタリアの普通の人で英語が分かるのはほんのごくわずかなんだって。だから一人でタクシーに乗る時は“イタリア語の右と左と止まれ”だけは絶対覚えとけって言われたよ」「へー、そうなんだ。何ていうの? 」「右がデストラ、左がシニストラ、止まれがフエルミ・クイ」「難しいわね。覚えられないわ」「覚え方は簡単。デストラは“死んだトラ”つまり英語バージョン。シニストラは“死んだトラ”日本語バージョンで覚える。フエルミクイはそのまんま覚える。フエルミは止まれ、クイはここだって。そうするとようやく一人でイタリアでタクシーに乗れる」「あっはは、面白い。覚えとくわ。いつか役に立ちそうだわ」またある時、二人で渋谷の駅裏にある“サムデイ”という地下のバー

に行った。若いマスターが一人でやっているこじんまりしたカウンターバーだ。「すごく雰囲気がいい」と、前に芳人に連れてきてもらったことがあった。お酒の飲めない裕だが、この時はかなり薄めのジントニックを顔見知りの、無口でニヒルなマスターに作ってもらい由美子と二人で飲んだ。「由美ちゃん、ここのホットサンドが絶品なんだ。一度食べさせたくてさ」たっぷりのコンビーフと玉ねぎが入った熱々のホットサンドを一緒に頬張った。「本当だ。すごくおいしい!」奥でニヒルなマスターの目が一瞬きらりと光った。裕がふとカウンターの片隅を見ると見たこともない青いバラが数本、白い花瓶の中に飾られていた。「青色のバラなんてあるのね。初めて見たわ」「本当だ。僕も初めて見たよ」また、ニヒルなマスターの目がキランと光った。「これブルームーンというドイツ産の新種の薔薇(ばら)なんですよ」裕はマスターの声を初めてまともに聞いて少し驚いた。「青い薔薇(ばら)なんて絶対に作れないと、ずっと言われてました。だからこの花言葉は最初、〝不可能、夢は叶わない、決してあり得ないこと〝だったんですよ。でも結局いろいろな偶然が重なって奇跡的に出来てしまった。だから今の花言葉は”奇跡、神の祝福、夢が叶う、不可能なことを成し遂げる“に変わったんですよ」裕はマスターのあまりの饒舌ぶりにぽかんとしていた。スローテンポのジャズが流れる薄暗い照明の下で、由美子はその神秘的な青紫色の薔薇(ばら)をいつまでもじっと見つめていた。もうこの頃には裕は由美子なしの人生は考えられなくなっていた。何より由美子は仕事で培(つちか)われた気配りと生来の賢さを備えていた。そしていつも明るく、たまには幼く、どちらかというと無口な裕をリードしてくれた。何より会話の波長がピタリと合ったので二人でいるとお互い心が落ち着いた。その年の秋には由美子を吉祥寺の家まで連れていき、将来結婚を前提にした付き合いをしていることを両親と家族に知らせた。健二と家族全員はすぐに由美子を気に入り、由美子はその時から実質的なフイアンセとして風戸家全員から認められるようになった。特に瑞江は由美子の性格の良さを気に入り、時には裕より可愛がるようになっていった。1971年10月10日、富士マスターズ250キロレースが開催された。裕が待ち望んでいた日本でのグランチャンの5戦目、つまり最終戦だ。裕はレースより1週間も早い10月3日にノースウエスト機でいつものように羽田に着いた。その理由はCAN―AMでは今年それなりの結果を出してきた裕だが、日本での活躍はあまり満足のいくものでなかったからだ。裕の日本での愛機ポルシェ908―Ⅱは今年富士で4回グランチャンを走って2回もリタイヤしていた。その原因はすでに明らかになっていた。一つはフロント両輪のハブ・ベアリングがすぐ焼き付いてしまうという不具合、もう一つはタイヤが車に合わなかったことだ。今回はべアリングを入念にチェックし新しいものに切り替え、足回りも今まで手に入らなかったファイアストーンのニュータイヤ(スーパースポーツGP)に履き替えた。おニューになったポルシェ908―Ⅱは裕の帰国を万全の状態で待っていた。裕は一刻も早くこのリニューアルされた愛車ポルシェに会いたかったのだ。特にこのニュータイヤは今までつけていたタイヤと同じオールウエザータイプ、つまり晴れでも雨でも対応できるものだったが、特に雨の時抜群の対応力を

発揮することを裕をはじめ風戸チームのメンバーは確認していた。つまりこのタイヤは風戸チームだけの秘密兵器だった。

秋雨(あきさめ)前線は長く関東に停滞すると天気予報は知らせていた。つまり裕たちは10月10日は必ず雨になることを見込んで一発勝負をかけていたのだ。裕たちの狙いどうりレース当日の富士サーキットは朝から叩きつけるような土砂降りの雨だった。「やったね」裕と日本での相棒のチーフ・メカニックの佐藤直利はピットで顔を合わせて思わずにっこりした。裕と佐藤はすでにレース前に土砂降りの雨の中、10回以上も富士で練習走行を繰り返していた。秘密兵器のニュータイヤは雨に対して裕が期待する以上の抜群のレスポンス(反応)を見せてくれた。「雨なら絶対勝てる」裕と佐藤はお互いに確信していた。午後12時、観客はすでに5万6千人に達していた。スターティング・グリッドには最初から予選トップでグランチャン2連勝中のJOLF1240スペシャルの絶好調男、酒井正(ただし)。隣にはダントツの優勝候補、マクラーレンM12のアメリカ人ドライバー、トニー・アダモウイッツ。2列目はヨーロッパF2参戦中で未だに良い結果が出せず、今回5リッター・12気筒の最強お化けマシン、濃緑のポルシェ917Kで必勝を期す生沢徹、その隣にはゼッケン88、真紅のポルシェ908―Ⅱの風戸裕と続く。その背後にはゼッケン6、ニットラ・シェブロンB19の田中弘(ヒロム)と若手の有望株ナンバーワン、ローラT212の高原敬武(たかはらのりたけ)が控えていた。総勢24台の当代最強マシンが富士1周6kmを41周走る過酷なレースだが、優勝圏内は予選タイムが他車と明らかに違うこの上位6台に絞られていた。正午丁度にサングラスに口髭の津々見友彦(つつみともひこ)が誘導するフエアレデイZのペースカーに引きつられてゆっくりと24台のローリングが始まった。雨足は朝の土砂降りから少し落ち着いてきたが相わらずと延々と降り続いていた。裕は天が与えてくれたこの千載一遇のチャンスに虎視眈々(こしたんたん)と勝利への機会を狙っていた。1周後、津々見のフエアレデイZがスーッとピットに滑り込んだ。と、同時に後続の24台は激しい水飛沫(しぶき)を蹴散らせ、爆音を響かせながら一斉に30度バンクへと突っ込んでいった。これから41周の長丁場だ。スタート直後、ピットから一台の救急車がコースに飛び出していった。スタンドの観客の中に一瞬の緊張感が走る。バンク手前の下りで米村太刀夫

(よねむらたちお)のスパイダーが濡れた路面に足を取られ、フロントから大きく浮き上がって後ろのめりに転倒、激しく大破していた。命からがら抜け出して来た米村は運よく軽い鞭打ち症だけで済んだが、マシンは当然そこでリタイアした。1周目の100Rの陰から真っ先に飛び出してきたのは絶好調男、酒井正のマクーラレンだ。続いて揉みあうように同じマクラーレンのトニー・アドモウイッツ、続いて生沢徹、裕のポルシェ陣が激しく追いかけていく。そのあと少し離れて田中弘(ヒロム)のシェブロンと浅岡重慶(あさおかしげのり)のベレットスパイダーが続いていった。優勝候補の一角の高原

は最終コーナーを立ち上がってすぐにピットに滑り込んでしまった。ピットクルーが「どうした?」と尋ねると高原は「300Rで水溜りに足を取られてスピンした後おかしい」と、言ってあとはひたすら首をひねるばかりだった。フロントカウルを外してチェックすると左のフロントハブが完全にいかれていた。すでに手の打ちようがない。若手一番の有望株で逆転優勝のチャンスも狙っていた高原はここで無念のリタイアをせざるを得なかった。コックピットをおりてヘルメットを脱いだ高原はまだ降りしきる雨空を恨めし気に見上げ大きなため息を一つついた。2周目の直線に入ってすぐにアダモウイッツが酒井を大きな水飛沫(みずしぶき)を上げて一気に抜き去った。そのまま1周1分59秒台のラップを着実に積み重ね、2位の酒井をジリジリと引き離していく。焦った酒井は3周目にヘアピンの立ち上がりで水溜りにタイヤが滑り大きくスピン。何とか立て直し20秒遅れでアダモウイッツを追走する。裕の赤のポルシェと生沢の緑のポルシェは3周目から7周まで抜きつ抜かれつの火の出るようなデッドヒートを演じ、観客の目を釘付けにした。7周目にタイヤに自信のあった裕が今までの激しい競り合いに決着をつけ、一気にコーナーで生沢を抜き去り、3位に上がった。裕に見事に置き去りにされた生沢のすぐ背後には、田中弘のシェブロンが影のように迫ってきていた。依然悠然とトップを快走するアダモウイッツは15周目には5位の田中弘を、16周目に4位の生沢を周回遅れに蹴散らしていた。2位の酒井はアダモウイッツから1分半も引き離され、いつのまにか背後には裕の赤のポルシェがテール・ツー・ノーズでピタリと張り付いていた。裕は前を行く酒井のマクラーレンを背後から羊を襲う狼のような醒めた目で正確に追い詰めていく。丁度折り返し点に入った21周目、裕に後ろから激しく追い込まれて万事休すだった酒井が急遽ピットに駆け込んでいった。酒井が大声でピットクルーに何か言っている。それに応じてクルーがすぐにギアボックスを点検し始めた。22週目、首位を独走していたアダモウイッツも酒井に続いて急遽ピットイン。なんとピットに朱色のマクラーレンが仲良く2台並んでしまった。戦況の激しい変化に観客がどよめき、大きな拍手があちらこちらから沸き起こった。酒井のマクラーレンはいまだに動きを見せないが、アダモウイッツのマクラーレンは外れていたリアカウルを締め直してすぐにサーキットに戻ろうとした。その瞬間、目の前のストレートを裕の真紅のポルシェが水飛沫(みずしぶき)を上げ一気に走り去っていった。ついに首位交代だ。「やったぞ!」「いいぞ、風戸!」5万6千人の観客はニュー・リーダーの裕の快走に大喜びして歓声を上げた。まさに水を得た魚(うお)のように裕のポルシェは小気味よいエンジン音を響かせ、快走を続けた。しかし、さすがに優勝候補のアダモウイッツは見事にマクラーレンを操り、28周目のグランドスタンド前のストレートでアウトから一気に裕を抜き去った。「しまった!と、裕は思わず唸った。しかし、そのすぐ後にまた信じられないことが起こった。必死に追いかける裕の目の前でまたアダモウイッツが急にすっとピットに消えていったのだ。「あれー、トニー、どうしたんだろ?」最初は何が起こったのかわからなかった裕はまるで「狐につままれた」ような気分だった。「はは~ん、またどこか壊(いか)れたな・・・」すぐに状況を把握してまた一気にアクセルを踏み込んだ。まさに「棚(たな)からぼた餅」とはこのことだ。手から一度こぼれ落ちたトップが勝手に向こうからまた転がり込んできたのだ。「今日はついてる。いけるかも・・・」アダモウイッツはピットでまた緩んだリアカウルを締め直し、フロント・タイヤの交換をしている1分半の間に生沢にも抜かれ、3位にまで下がってしまった。田中弘のシェブロンは油圧が低下し、水温上昇の兆しが見え始めた。田中はペースをわざと抑えて、坦々(たんたん)と4位をキープしていた。31週目になって再度勝利の女神が裕に大きく微笑んだ。コースに戻り必死に裕を追っていたアダモウイッツがまたもピットインしたのだ。先ほど履き替えたばかりの前輪がバーストし、再度交換しなければならなかった。裕がアダモウイッツのピットを通り過ぎる時、普段温厚な彼が真っ赤な鬼のような形相でメカニックに食いついていた。再度コースに戻った時には裕から2周遅れの6位にまで落ちていた。これで勝敗は完全に決した。最大の「目の上の瘤(たんこぶ)」だったアダモウイッツが目の前から勝手に消えてくれた。勝利を確信した裕は、もう無理をすることなくペースを2分02秒から06秒台にすかさず落とした。後を追いかける生沢はすでに1分40秒も後ろだ。生沢のポルシェは直線では早いがコーナーでは早く回れず、どんなに頑張っても2分06秒を切ることが出来なかったからだ。裕が最終ラップに入るころ今まで眠っていた酒井のマクラーレンがようやく野太いエジン音をあたりに響かせコースに戻って来た。勝負はすでに捨てていたがスポンサーとファンのためにチェッカ―フラッグをうけるのが目的だった。それから2分後、裕のポルシェが最終コーナーを軽やかに抜け、グランド・スタンド前に爆音を轟かせ一気に加速してきた。割れるような拍手と大歓声の中、裕のポルシェに向かってチェッカ―・フラッグが大きく打ち振られた。「カザ―トー カザートー」5万6千人の大観衆が一斉にカザト・コールの大合唱を繰り返した。歓喜のウイニング・ランが始まった。(一年かかったな)裕はコックピットに座りながらつぶやいた。まさに去年の秋にポルシェ908Ⅱを持ち込んでからおよそ一年後の待望の初勝利だった。ピットに戻った裕はすぐにもう一人の「勝利の女神(ミューズ)」を必死に探した。裕のグランチャンの初勝利の喜びでごったがえすピット・クルーの群れの片隅で、ひっそりと佇み慈母のような優しい眼差しで裕を見つめる本物の女神、笑顔の由美子がそこにあった。

第7章 完