風になったアブラハム 第6章 風戸家のCAN・AMへの挑戦

第6章 風戸家のCAN・AMへの挑戦 昭和45年

4月までポルシェカレラ910で連戦連勝を重ねてきた裕は、その後富士

や鈴鹿だけでなく筑波サーキットなどに新たな戦いの場を広げていった。

「今の裕ならどんな車でもこなせる」と、滝と健二郎が太鼓判を押し、

タキレーシング所有の看板車ポルシェ908まで裕の手駒に回ってきた。

健二は裕にポルシェ購入を認めてから、出来る限り裕のレースを見るように

努めてきた。最近あまり体調がすぐれない瑞枝も医者が許す限り健二と共に

サーキットに出かけた。

これは二人の間で「万が一、裕がレース中事故死しても仕方がない。その時

は悲しいけれど覚悟はしておく。だから今見れるレースは時間の許す限り

見ておく」という暗黙の了解があった。裕も当然その覚悟はしていた。

レースの前は必ず下着は新しい物に替え、部屋を奇麗に整理整頓し、

毎日つけている日記は健二が見つけ易い所にいつも置いておいた。

「裕のレース活動を援助する」と、公言してから健二のスポンサーと

しての役割は本格的になっていった。手始めに裕のレース活動をサポート

する目的で有限会社風戸レーシングを設立した。すでに若手トップレーサー

の一人になっていた裕にはダンロップやブリジストンなど有名企業から

スポンサーのオファーもたくさん来ていた。だから会社組織にした方が

マネジメントしやすかったからだ。

タキレーシングとの共同提携はそのまま保ち、猪瀬とその愛弟子の

佐藤敏彦が裕専属のメカニックとして風戸レーシングに移籍した。

更に裕はレースの合間にドイツに飛び、CAN・AMレース用に

ポルシェ908Ⅱを1000万円で購入して来た。ついに裕の次の

ステップであるCAN・AM参戦に向けての準備が着実に始動した。

しかしこれまで順調にレーサーとしてのステップを上ってきた裕に

突然の悲劇が訪れた。10月10日の富士での日本オールスター

の当日、レース前の練習走行中にセコンドメカニックの佐藤俊彦が

裕の目の前で事故死した。

最初の練習走行を終えピットに戻った裕のもとに猪瀬と佐藤が

いつものように駆け寄った。二人は無駄な動きを一切せず、淡々と

リズミカルに作業をこなしていく。猪瀬が目でオッケーのサインを

裕に送る。裕はそれに頷(うなず)いてまたすぐ走り出す。猪瀬と

佐藤は車を挟んで二手にす~っと離れる。猪瀬はピット側。佐藤は

コース側に動く。とその時、猛スピードで佐藤の横を走りぬけよう

としていたニッサン車が左方向に突然スピンした。

どすん。

裕の視界にスローモーションのように4~5mほど仰向けに飛ば

される佐藤が映った。一瞬の出来事だった。ドクター・ヘリが

すぐに呼ばれ国市(くにし)の順天堂病院に緊急搬送された。

担架に仰向けに横たわる佐藤はピクリともしなかった。

こうなったらもうレースどころではない。裕はすぐにレースを

アバンダン(放棄)し、スタッフ全員で病院に駆けつけた。

その日の夜遅く佐藤は帰らぬ人となった。佐藤の母の志津子が

病室で泣き崩れた。裕は志津子の前で土下座した。

「お母さん、僕のせいです。ごめんなさい。本当にごめんなさい」

裕は子供のように人目も憚(はば)らず声をあげて泣いた。

猪瀬は待合の椅子に腰掛けたまま首の後ろに両手を組み、上を

見上げたまま微動だにしなかった。

 

裕の受けた衝撃は計りしれなかった。佐藤は猪瀬と共に裕の

カレラ10の連勝劇を影で支えてくれたかけがえのない戦友

だった。レーサーの命はマシンに委(ゆだ)ねられる。つまり

そのマシンを調整するメカニックはレーサーの命を握っている

も同然だった。9歳年上の猪瀬は気さくな親父のような存在、

2歳年上の佐藤は頼れる兄貴のような存在だった。

翌日から部屋に閉じこもりほとんど食事も摂(と)れなくなった。

無理に食べても、脳裏に宙を舞う佐藤のスローモション映像が

浮かびすぐに吐いてしまう。トイレで黄色い胃液をすべて吐き

尽くし、最後にはその中にうす赤い血まで混じっていた。

それでもさらに便器に顔を突っ込み、まるで悪夢を絞り出す

ように胃液を吐き続けた。

「もうレースは続けられない。自分が死ぬ方がまだましだ。

仲間が死ぬのを見るのはもう嫌だ」

まるで魂が抜けたようになり、人が変わったようだった。突然

の大きな衝撃に裕のメンタルは少し崩れかけ始めていた。

健二も瑞枝もとても声をかけられなかった。健二はうすうす裕

がもうレースを止めるのでは、と感じていた。健二も瑞枝も

危険なレースは一刻でも早くやめて欲しいと今でも思っている。

でもこのような形で裕がレースを止めるのは健二の本意(ほんい)

ではなかった。

仲間を失った辛い気持は分かる。健二も戦争中何度も同じ経験を

していた。しかしそれに押し潰され、逃げる事は結局自分に負ける

事に他ならない。こんな形でレースを辞めたとしても、今後の裕

の人生のプラスになるとは思えなかった。むしろまた辛い事に

直面した時、また自分にとって楽な道を選ぶ負け癖がつくのでは

ないだろうか。でもあえて健二は何も言わず裕の選択に任せる

ことにした。

こんな日々が数日続いたあと、部屋に閉じこもる裕のもとに猪瀬

と佐藤の母の志津子の二人が訪ねてきた。応接間で裕と向かい合い、

猪瀬と志津子が並んで座った。裕は挨拶をしてから何も言わず、

ただ蒼ざめた顔で俯(うつむ)きながら少し唇を震わせていた。

猪瀬も肩をこわばらせ無言だった。

しばしの沈黙の後、志津子がハンドバックから一枚の写真を

取り出し裕の目の前に静かに置いた。

「風戸さん、今回の事故でレースを辞めるなんて考えないで

下さい。そんな事、敏彦は決して望まないと思います」

裕と猪瀬が写真を上から覗いた。そこにはカレラ10の前に

立つ裕と猪瀬と敏彦の3人が写っていた。真ん中にいつもの

ようにすまし顔の裕、右側に少し眠そうな猪瀬、左側に

はじける笑顔でピースサインをする敏彦がいた。

「これを風戸さんに貰って頂きたいのです。お願いです、

これからも敏彦と一緒に走ってあげて下さい」

裕は写真の前で頭を下げ、静かに嗚咽し始めた。猪瀬は

固く握りしめた両拳を膝の上に置き肩を震わせていた。

佐藤敏彦の不慮の死から一ヶ月後、吉祥寺の風戸家では

また家族会議が開かれていた。すでに嫁いで家を出た淑子

と病弱な瑞枝を除いた健二と健士(たけし)、裕の3人と

健二の弟の豊(ゆたか)と藤代正巳(ふじしろまさみ

)の5人が集まった。

風戸豊は千葉大学医学部の医学博士であり地元千葉では

誰もが認める名士の一人だった。藤代正巳もかっては

千葉大学の医学博士だったが、今は日本電子専務取締役

として、医学の経験と知識を生かし電子顕微鏡の開発に

取り組んでいた。子のいない親戚の藤代家の養子になり

苗字は違うがれっきとした健二の実弟である。この二人は

健二と裕が公私ともに最も頼りにする精神的支柱でもあった。

志津子の訪問から裕は何日(なんにち)も将来の事、つまり

これからのレースについて辞めるか続けるかを、脳髄(のうずい)

を絞るほど考え抜いた。そして最終的にレースを続ける決断を

自分で下した。その結論を健二に話し、お互いに胸の内を包み

隠さず晒(さら)け出し何度も確認しあった。

「もう迷いはないんだな」

「はい、大丈夫です。もうブレる事はありません」

会議の時の裕の顔つきは以前とはまるで違っていた。幼さは微塵も

なく消え失せ、大きな試練を一つ乗り越えた強い大人の顔に変貌して

いた。会議のテーマはもちろん裕の今後のレース活動に関するもの

だった。どうせレースを続けるなら、中途半端でなく風戸家が出来

得る限りの本格的なレース活動を展開する。手始めに北米に渡り、

CAN・AMにフル参戦する。その後ヨーロッパに移り、F2を

経て最終的に日本人初のF1ドライバーを目指す、という壮大な

計画だった。

叔父の二人は子供の時から知っている裕がレースをやる事には

もちろん反対だった。しかし健二の「最悪、裕のレース中の

事故死までも僕はいつも覚悟に入れている」という不退転の

決意と裕の拭切れた顔つきから不本意ながら協力する事にした。

「兄貴と裕の決意はよく分かった。気持ちとしては私たちは

今でもレースをやらない方がいいと思っている。でもやるの

であれば最上の方法で裕がレースに臨めるよう協力は

惜しまない」と、正巳叔父が会議を締めくくるように

力強く言った。

裕は心の中で、風戸一族という素晴らしいファミリーの中に

生まれた幸運を心から感謝した。 この時から裕のCAN・AM

挑戦だけでなく、今後の全てのレースに風戸家の強力な親族一同

が後ろ盾に加わる事になった。

第6章 完