風になったアブラハム 第10章(最終章) ザ・ラスト ラン

第10章 ザ・ラスト ラン・昭和49年(1974年)

「雅晴が燃えている・・」裕は30度バンク下で激しく黒煙を上げている雅晴のシェブロンを右手に見ながら、先頭の鈴木誠一を追いかけていた。不思議と涙は出なかった。雅晴とは16歳の時、船橋サーキットで会って以来8年間の付き合いになる。プロのレーシングドライバーとしては考え方もその生き様もかなり違っていたが、お互い良きライバルとして切磋琢磨(せっさたくま)し認めあってもきた。「またかけがえのない仲間(とも)が一人去っていった・・」裕の脳裏(のうり)に4年前、自分の目の前でスピン車にはねられ事故死した佐藤敏彦のスローモーション映像が雅晴の黒煙とオーバーラップした。・・・翌日には昭和49年の元旦を迎えるという大晦日の夜、久しぶりにボーグルズのメンバー4人全員が裕の日本での仮住まい、代々木参宮橋のアパートに集まった。勿論由美子も日本にいる時はここに裕と一緒に住んでいる。過密なレース・スケジュールの都合でまだ挙式は上げられなかったが事実上はすでに夫婦同然だった。すでに正式に結納も交わし、この11月には由美子の出身の立教女学院の聖マーガレット教会で挙式を挙げることになっている。アパートの狭い居間では男4人が車座になってワイワイ騒いでいた。由美子が奥の台所で手際よく酒のつまみを準備していく。テーブルの上には由美子手作りの見事なおせち料理とその横には裕の大好きなカズノコの醤油漬けが山盛りに飾られていた。お酒の飲めない裕はいつものコークを片手に笑顔でよく話し、由美子の手料理をモリモリ食べた。(裕、ずいぶん変わったな・・)横で裕の話をずっと聞いていた芳人が心の中で呟いた。裕がアメリカに行く三年前、吉祥寺の喫茶店モンツアで会った時の裕とは全く違った人間に思えた。その夜、酒の飲めない裕に付き合って、芳人は珈琲で深夜まで二人で話し込んだ。「レースをやっていれば普通の人より死は近い。レースでの死を考えた場合、とても恐いけどある意味、死を正当化してもいいのかなと時々思う。きっとそれは精神的に美しい死なんだろうな・・」当時の裕はしきりにレースでの死を美化しようとしていた。それに対して芳人は強く反論した。「そんな死なんて美しくもなんともない。ようはある意味自殺じゃないか。自殺なんて結局人生から逃げることなんだから、ずるくて汚いことだ」当時の裕の心に浮かぶのは死への恐怖とその死と自分が同化することへの強い憧憬(あこがれ)だった。衝撃的な佐藤の死からまだ数か月しかたっていない。いくら立ち直ったといっても裕の心の奥底には「死という観念」が根強くこびりついて剝がれていなかった。芳人は裕が自分より常に死に近い場所にいることは認めながらも、更に語気を強め責めた。「なにもそんなこと気取って得意気に言わなくてもいいだろ」「死を美徳化し、死に逃げこむなんて俺に言わせれば卑怯者のすることだ」裕は黙り込んだ。当時CAN-AM行きは自分で決めたこととはいえ、裕にとって計り知れない重圧(プレッシャー)となっていた。心の内では四六時中これから飛び込む未知の世界に対する恐怖におびえ、唇を震わせながら不安におののいていた。そんな心理状態の裕に芳人もかけてあげる適切な言葉が見当たらなかった。これが三年前の裕の真の姿だった。ところが今、目の前にいる裕は全く別人だった。何しろ明るくなり話が俄然面白くなっていた。わかりやすいように専門的な用語は誰にでもわかるようにかみ砕いて話し、次に相手が聞きたがっているツボを的確に押さえ簡潔に説明してくれる。一番変わった点は自分を飾らず、素のままを平気でさらけ出せるようになったことだ。昔の内気でシャイな裕にはまず有り得ないことだった。海外での三年間のタフな経験と由美子という最良の伴侶(はんりょ)を得たことが大きな要因だろうと思われた.(なんだかコイツ俺たちよりずっと大人になっている。普通の人間のペースよりかなり早いぞ。こいつ、なんか生き急いでないか?)「由美ちゃんもこっちに来て食べなよ」裕が声をかけた。白いエプロンで手を拭きながらいつもの明るい笑顔で由美子が席に加わった。(すでに皆(みな)忙しい社会人になり、付き合いが途切れがちだった昔の仲間を裕が音頭を取って集めてくれた。これでまたきっと俺たちは一生付き合える友達になるだろう)と、芳人が心の中で思っていた時、裕がふいに言った。「みんな、明治神宮に初詣(はつもうで)に行こうよ」「いいね!」「行こう、行こう」テレビでは恒例の「ゆく年くる年」が始まっており、厳(おごそ)かな除夜の鐘の音が流れていた。薄暗い元旦のアパートからの坂道を、5人でワイワイと話しながらゆっくりと下って行った。由美子は裕にミラノで買ってもらったモンクレーの真っ赤なダウンジャケットを着て、身も心もとても暖かそうだった。年が明けてすぐの1月7日、裕と由美子はイタリアのミラノ、マルペンサ空港にいた。ゲートの出口には裕の親友のニキ・ラウダと彼女のマルレーネが待っていてくれた。ニキ・ラウダは裕と同じ24才のオーストリア出身のF1ドライバーで、裕と1972年にマーチ・チームのF2のセカンド・ドライバーの地位を争った男だ。結局マーチはニキ・ラウダを選び、裕はマーチの準ワークス・ドライバー(野球でいう抑え選手)としてF2参戦することになった。ラウダはオーストリアでも指折りの大製紙会社の御曹司だったが、家に内緒でレースに熱中し、それがばれてついに父親から「レーサーになるなら無一文でラウダ家から出ていけ!」と、勘当されていた。実力でマーチ・チームから採用されたものの、チームへの持参金、つまり保証金が払えず、自らの生命保険を担保に銀行から金を借りてなんとか賄(まかな)ったという逸話(いつわ)の持ち主だ。父親から勘当されても一人で必死に頑張るラウダが裕は大好きだった。ラウダも日本料理が大好きということでロンドンの裕の家に暇さえあれば顔を出し、由美子の家庭料理に舌鼓(したづつみ)を打っていた。彼はのちに1975年、77年、84年と3度のF1ワールドチャンピオンになる天才ライダーだ。ラウダはこの年からフエラーリと契約する事になり、細かな打合せをするためミラノに来ていた。裕とは前からオフシーズンのこの時期にイタリアで会い、フィレンツエで遊ぼうと約束していた。「ハーイ、ヒロシ、よく来たな。」ゲート出口でラウダが笑顔で手招きしていた。彼はこれから2年後の1976年、ドイツ・グランプリの多重衝突事故でマシンが大炎上し、頭部と顔に瀕死の大火傷を負うが、この時はまだ細面のすらりとした美男子だった。美人だがとても気の強そうなマルレーネもラウダの隣で手を振っていた。「おなかすいてないか?」と、いうことで4人でミラノ市内のカフエで軽食を取り、そのままラウダの黄色のフエラーリでフィレンツエまで行った。ミラノからの距離は300キロほどだが,高速で飛ばせば2時間ほどで着く。イタリアの高速道路は3車線あり、大外の追い越し車線の制限速度は150キロだ。ラウダは追い越し車線を常にキープし、長く緩やかでカーブの多い下り坂を150キロをピッタリとキープして軽やかに飛ばしていく。今回の4人のフィレンツエ行きには大きく二つの目的があった。一つは前から由美子が一度は行きたいと思っていたウフイッツ美術館に行くこと。もう一つは毎年1月7日から始まるフィレンツエのブランド・ストリート(トルナブォーニ通り)での冬の大バーゲンで欲しいものを見繕うことだ。この通りには、グッチ,エレメス、プラダ、アルマーニなど日本でも有名な高級ブランドの名店がずらりと立ち並ぶ。普段は絶対に値下げなどしないこれらの名店がこの時期にだけ定価の50から80%引きの叩き売りを行うのだ。勿論、人気の定番商品は対象外で、前年にあまり売れなかった旧モデルのみが対象になる。「由美ちゃん、いくら売れなかったとはいえ、なんでこれほど安く売るの?」「高級ブランドは定番モデル以外、売れ残った旧モデルは翌年には売らないという暗黙のルールがあるのよ。世界中のどの店にも一切置かないから、旧モデルはすべて廃棄処分になるの。それで冬と夏の2回にこのようなバーゲンセールをして人気のなかった旧モデルの在庫を処理してるわけ」「なる程、それであいつらはブランド・イメージと高値を保っているんだな!要は汚れた古い血を健康になるために毎年二回、入れ替えるということだな!」ラウダが横から口をはさんできた。ラウダは実際にこの2年後のドイツGPの大事故で死の一歩手前までいき、自分の血液の70%を入れ替えるという大手術を受けることになる。ある日、「もう駄目だろう」ということで臨終の儀式をするために牧師が病室に訪れてた。すると今まで死の淵をさまよっていたラウダが、それから急に回復し始めた。そしてその生死をかけた大手術からわずか1か月半後にレースに復帰した。そしてなんと翌年には二度目のワールドチャンピオンにもなってしまった。

まず4人は由美子とマルレーヌのお目当てのプラダに行った。確かに人気の定番モデルの黒のポーチバッグは値引きされていなかった。しかし、定番モデルとは違う旧モデルの小型の黒のポーチバッグは去年まで8万円のものが2万円になっていた。裕にはその違いが全く分からなかった。由美子はすかさずその2万円のバッグを選んだ。マルレーネは値引きのない人気の定番モデルが欲しいとラウダにねだっていた。次に4人は近くのジョルジュ・アルマーニにいった。ここも旧モデルのネクタイが去年まで1万円のものが3千円で売られていた。裕とラウダは各々気に入った柄を10本ずつ買った。それからドライビングシューズで有名なトッズで普段履き用の柔らかい鹿皮のドライビング・シューズを色変わりで3足ずつ購入した。由美子には可愛らしいローファーのベージュ(薄茶色)のスエードの靴を買ってあげた。ブランドストリートでは日本人らしき中年の婦人グループとよくすれ違った。「あの人たち日本人だよね?」「今日はよく日本人に合うね」あとで分かった事だが、この情報はすでに日本でも知れ伝わっており、彼女たちはこのバーゲンだけに狙いをつけ、わざわざ高い飛行機代をかけてイタリアにこの時期だけ格安ブランド品を大量に買いに来ているとのことだった。それほど安いということらしい。ブランドストリートで欲しいものをたっぷり買い、ウインドウショッピングを堪能(たんのう)した四人は夕方近くにウフィツィ美術館に向かった。「ウフィツィは朝一番か、夕方の今頃が一番狙いごろなんだ。昼間はいつも観光客の大行列で数時間待ちだぜ」ラウダが裕にいった。確かにあまり並ばずにスムースに入れた。裕は以前パリのルーブル美術館にモナ・リザを見に行ったことがある。近代的なルーブルとウフイッツは趣(おもむき)が全く違っていた。ウフイッツはいかにもルネッサンス時代の歴史ある雰囲気を漂わせる古びた建物の大きな美術館だった。美術館の中もすべて明るくモダンなルーブルとは違い、明るい部屋と薄暗くて時間がたたないと目が慣れず絵が見えないような部屋もあった。その薄暗い部屋の中で由美子が一枚の絵を食い入るように見ていた。裕も横に立ってその絵を見た。「可愛い絵だね」由美子が笑みを浮かべて頷(うなず)いた。それほど大きな絵ではなかった。暗い背景に明るい色取りで、背中に根本が赤で先端が白の羽が生えた可愛らしい小天使がマンドリンのようなものを弾いていた。由美子は憑(つ)かれたようにいつまでもその絵を見ていた。後で知ったことだが、これはロッソ・フイオレンティーノの「奏楽(そうがく)の天使」という絵だった。ラウダに聞くとウフイッツでも一番人気の高い絵の一つだそうだ。特に若い女性がその天使の可愛らしさに虜(とりこ)になっているらしい。次に4人は大広間にあるボッティチェリの「ヴィーナス誕生」と「春」の前に立った。「あっ、これ世界史の教科書で見たことあるわ!」由美子のいう様に裕も確かに二つとも教科書で見覚えがある絵だった。「でも教科書の小さな写真のイメージがあるからもっと小さな絵だと思ってたけど、二つともこんなに大きな絵だったんだね」どちらも縦が2メートル、横が3メートルくらいあった。「やっぱり写真で見るのと本物は全然迫力が違うわ」「そうだね。レースもそうでしょ。テレビと本物のサーキットで見るのとでは迫力が全然違う!」裕が胸を張って言うと、由美子は少し眉をひそめてそれには答えなかった。次に二人に衝撃を与えたのはカラヴァッジョの部屋だった。まず入り口からすぐに円形の盾に描かれた「メドゥーサ」の絵に由美子が「キャッ」と、小さな叫び声をあげた。髪の毛がすべて動めいているかのような10匹ほどの毒蛇で、大きく目を見開いた女が首から下をかき切られて、切り口から血が噴き出ている。今にも叫び声が聞こえてきそうなほど生々しく描かれていた。その近くにカラヴァッジョの最高傑作と言われる「若きバッカス」があった。まるでそこに生きているかのようなバッカスに裕と由美子は思わず息を飲んだ。赤葡萄酒の入った大き目のワイングラスを左手に持ち、白い右胸を大きくはだかせ、眠そうなうつろな目、赤らんだ頬、はれぼったい赤い唇、垢(あか)が詰まった汚れた爪先。 そしてバッカスの前にある籠に大きく盛られた様々な果実は半分腐りかけ、虫食いの後も見える。今にもぷーんと、ハエが飛ぶ音が聞こえ、酸っぱいすえた臭いがしそうだった。これがおよそ400年ほど前に描かれた絵とはとても信じられなかった。カラヴァッジョは若い時から不世出の天才画家という評判を周囲から得ていた。しかしとても短気でいつも殴り合いの喧嘩ばかりしていたのでトラブルが絶えなかった。ついに35才の時、ローマで賭け事のもつれで乱闘騒ぎを起こし

一人の若者を剣で刺し殺してしまう。懸賞金を懸けられたためすぐにローマから逃げ出した。その後何度か逃走先でも乱闘騒ぎを起こし相手に大けがを負わせたが、逃亡から3年後、熱病にかかりぼろ雑巾のように田舎町で38歳の若さで朽ち果てた。しかし人殺しの逃亡者にもかかわらず、イタリアでは今でも大人気で、犯罪者で初めてリラ紙幣になった人物でもあった。たっぷりウフィツィ美術館を堪能した二人が出口に行くと、すでにラウダとマルレーネが楽しそうに話していた。聞くとマルレーネが「もう飽きた」と、いうので早々と切り上げて二人でエスプレッソを飲んでいたとのことだ。ウフィツィ美術館を出た四人はまだ明るいので、ヴェッキオ橋近くのアルノ川のほとりにあったオープンカフエでエスプレッソとケーキを楽しんだ。「裕、俺たちも今年は25歳だ。レーサーとしてはこれから一番脂がのる時期だ。俺は今年からフエラーリで勝負をかける。裕はどうするんだ?」「僕は今年から正式にシェブロンと契約をする。あと一年F2で頑張って、来年からは君がいるF1に行くよ」「ああ、お前ならきっと来るだろうな。待ってるよ。ところで今年の日本のグランチャンはどうするんだ?」「うん、5月5日の第1戦と6月2日の第2戦に出てから、翌日、ホッケンハイムに行くんだ。それからすぐ6月9日がF2初戦だよ」裕は去年の9月からブリジストンのタイヤ、シェブロンのシャーシ、BMWのエンジンに替えてから絶好調だった。9月2日のグランチャン第3戦は8位だったが、10月10日の第4戦は田中弘に大差をつけて優勝、そして雅晴が逝った11月23日の第5戦は鈴木誠一に続いて2位だった。この日本での好成績にシェブロンは非常に好意を示し、裕に来季からのF2の第2ドライバーを正式にオファーして来ていた。まだ極秘だがこの5月にシェブロンは正式にイギリスでF2参戦を表明することになっている。第1ドライバーに新進気鋭のF1ドライバー、ジェームズ・ハントがすでに決まっていた。つまり6月9日のホッケンハイムがシェブロンにとって大事なF2戦のお披露目なのだ。裕はロンドンに戻ってからシェブロンとこれから先のことを色々と打ち合せしなければならなかった。その晩はラウダが「俺が知っている限りイタリアで最高の料理を出す店だ。いや、恐らく世界一のレベルかも・・」と絶賛したフィレンツエ近くのマリナ・デ・カララという小さな港町にある“ビストロ”という名のレストランに四人で行った。店に入ると左側のテーブルに見るからにマフィアの幹部らしき、真っ赤なネクタイに派手なクリーム色の高そうなスーツを着込み、葉巻を口にくわえたまだ20代後半の若い男が、後ろに屈強なボデイガードを3人立たせ、左右にはモデルらしき絶世の美女を4~5人ほどはべらせ、赤ワインと豪華な食事を楽しんでいた。(さすが、マフィアの発祥の地イタリアだな・・)裕たちはその横を静かに遠巻きにして通り過ぎ、案内されたテーブルに着いた。確かにそのレストランで食べたイタリア料理は裕が今まで食べた中でも秀逸のものだった。まず前菜に生ガキと生ハマグリのマリネが出た。「ハマグリって生で食べて大丈夫なの?」「当たらないかな?」日本ではハマグリを生で食べる習慣がないので、裕と由美子はとても不安そうだ。しかしこれがまさに絶品だった。口に含んだ時一瞬ハマグリの生臭さが鼻の中をスッと通り抜けるが、そのあと口一杯に広がるその汁のみずみずしさは何とも例えようがなかった。「よほど新鮮で、良いものでないとこれは食べられないね」後に続くカニ、エビ、タラなどの白身魚がたっぷり入ったシーフード・ズッパ(海鮮スープ)、メインの肉料理(フイレンツエ風ステーキ)と魚料理(舌ヒラメのムニエル)もすべてお見事と言うしかなかった。「これは日本では絶対食べられないわ」裕と由美子は顔を見合わせて肯(うなず)きあった。食後のデザートのドルチェ(ケーキ)とエスプレッソでフルコースを見事に平らげ、4人とも大満足だった。3人は料理のあまりのおいしさに驚いた。ラウダは「だろう!」と、とても自慢げでうれしそうだった。翌朝、ラウダとマルレーネの二人に見送られてマルペンサ空港からロンドンのヒースロー空港に向かった。裕は数日前に日本にかかってきたブラバムF1チームのチーフ・マネージャー、バーニー・エレクトンの話しを思い浮かべていた。「カザト、うちのF1マシンでレース・オブ・チャンピオンに出てみないか?」レース・オブ・チャンピオンとはF1の模擬レースのことで、ブラバムがこの誘いを裕にするということはは紛れもなく「カザト、将来ブラバムでF1をやらなか?」と、いうことだった。もし裕がF1ドライバーにオファーされるとしたら、日本人初のF1ドライバー誕生となり日本では前代未聞の出来事として大騒ぎになるだろう。機内にまもなくヒースロー空港につくというアナウンスが流れ始めた。「もうすぐF1ドライバーだ・・」由美子が裕の肩に寄り添って安らかな寝息を立てている時、裕は長年の夢が手を伸ばせばすぐ届くところに来ている事に胸を高鳴らせていた。シェブロン本社で今期のスケジュール調整を打ち合わせてすぐ、裕と由美子はそのまま羽田に出発した。これから日本グランチャン2戦へのマシン調整を担当エンジニアの解良喜久雄(かいらきくお)とやらなければいけない。F2戦への準備はイギリスでグレート猪瀬が一人で頑張ってくれている。だから猪瀬とも深夜毎日電話で頻繁に連絡を取って常にお互いの意思疎通を図る必要があった。さらに11月の由美子との挙式の準備も、とやることは山ほどあった。もう一人自分が欲しいと思うほど毎日が忙しかった。でも精神(こころ)はとても充実しており体の奥から常に生気が漲(みなぎ)っていた。裕の74年、最初のレースは5月5日の富士グランチャン第1戦「富士300キロ」だった。戦闘マシンは解良のアイデアでシャーシがシェブロン、エンジンがBMWというシェブロン ・BMWに変更された。さらに裕と解良のアイデアで後部が長い所謂(いわゆる)ロング・テール・シェブロン、風戸スペシャルが改良された。(余談だがこれはのちにプラモデルにもなり、そのあまりにも格好良いスタイリングの為、子供たちに大人気となった。)その目的は高速コースの富士に合わせてわざと後部にロング・テール(脱着式)を付け、高速での安定性をより高めるものだった。これにより裕の富士サーキットのストレートでの走りに格段の安定感が増し始めた。レースの前からパドックでのレーサーたちは異常にピリピリしていた。その理由は去年の11月から始まったオイル・ショックによるモータースポーツへの世間からの強い風当たり、そして昨年末の中野雅晴の衝撃的なレース中の炎上死、更に経済不況からスポンサーがレーサーを極端にえり好みする動きが目立ち始めたからだ。特に最後の理由がレーサーたちの一番のイライラの原因だった。経済不況の影響で露骨に経費削減を打ち出すようになった大手スポンサーに、少しでもよく見られよう、評価されようと露骨なアピール合戦がレーサーたちの間に広まり始めていた。「少しでも順位を上げたい」そのためには何をするかわからないドライバーが出て来てもおかしくなかった。裕は今は主戦場がヨーロッパなのでそういう意識はほとんど持って

いなかった。しかし、日本を主戦場にするレーサーたち、とくにニッサンやトヨタなどのワークス・ドライバーやワークス上がりは死活問題に直結するので、そのプレッシャーをまともに感じていた。「相手を潰(つぶ)さないと自分が生き残れない・・」という、もはや強迫観念(きょうはくかんねん)に近い心理状態に追い込まれている者もいた。ドライバーズ・ミーティングでもライバル同士の怒号が聞こえ、すぐにでも殴り合いが始まりそうな場面もあった。「あまりにも刺々(とげとげ)しいな…」裕は内心で何かやりきれないものを感じた。ここ三年間、裕の主戦場はアメリカとヨーロッパだ。勿論そこでもレーサーたちの競争意識は熾烈(しれつ)なものだ。ただし、露骨に敵対心をむき出しにしたり、幅寄せしたり、急に前に割り込むというような反則行為は絶対許されないし、一流のドライバーたちはそのような行為は決してしなかった。彼らのジェントルマン(紳士)としてのプライドが許さないからだ。このような精神的な土壌(どじょう)が当時の日本ではまだ未成熟だった。快晴の中、第一ヒートが始まった。裕のロングテール・シェブロンは相変わらず好調だった。自己ベストの予選タイムを叩き出し、予選6位と好位置からスタートした。レースが落ち着き始めた4周目、裕は高原敬武と

熾烈なデッドヒートを繰り返していた。高原は裕と同じプライベーターで、裕が弟のようにかわいがっている2歳下の新進気鋭の若手レーサーだ。最終コーナーに裕と高原がぴったりと並んで突っ込んでいった。高原がイン側で、裕がアウト側だ。すると高原のマーチが急にアウトに膨らんだ。「うわっ」と裕が声を上げるや否や両車は激しくぶつかった。裕たちのようなプライベーターはワークスドライバーのように故意的なラフ・フアイトは決してやらない。さすがの高原もあまりにも異常な雰囲気に吞(の)まれて無意識にやってしまったようだ。裕はこのクラッシュが原因で31周目にリタイアした。

ぶつけたほうの高原もその後エンジン・トラブルでリタイアした。レース後、裕のもとに高原が泣きそうな顔でやってきた。「ヒロシさん、ごめん。本当にすみませんでした」目の前で高原が借りてきた猫のようにしょぼんとしていた「ノリ、あれはないぜ。お前が完走してたら殴ってやるところだったよ」裕はペロッと舌を出して笑った。「温厚なノリでさえあんなにてんぱってるんだ。ほかのドライバー連中はもっとだろうな・・」裕は次の6月2日のグランチャン第2戦を思うと暗澹(あんたん)たる気持ちになった。6月2日のグランチャン第2戦の日が来た。裕の予想通り、レース前の雰囲気は5月5日の第1戦よりもさらに悪化していた。こんなに殺伐(さつばつ)とした雰囲気のグランチャンは裕も初めてだ。午前中の休憩時間に裕は由美子と風戸レーシングのプレスバス(休憩を兼ねたレース関係者が集えるサロン車)の中で肩を並べて

くつろいでいた。二人は11月に挙げる挙式の披露宴用のパンフレットを楽し気に眺めていた。二人の膝の上にはこれから身に付ける裕のレーシングスーツがさりげなく掛けてあり、目の前のテーブルにはコーヒーカップが二つとアルミホイルにつつまれた由美子お手製のおにぎりと卵焼きがあった。「ヒロシさん、なんで今回ナンバーを変えたの?」裕の日本でのカー・ナンバーは今まで必ず80か88のどちらかと決まっていた。今回ゼッケンナンバー10をつけるのは極めて異例

なことだった。由美子はこのことがなぜか朝から気になっていた。「大きい数字だとどうしても正面スタンドの後ろのピットに置かれるんだ。10だと正面スタンド前に置かれるからテレビ映りがいいんだよ。目立つでしょ、ただそれだけ・・」

「ふーーん、そうなんだ」二人はこのレースの翌朝、裕のホッケンハイムのレースのために羽田からドイツのフランクフルトにすぐに飛び立つ予定だった。由美子はこの今までしなかった裕のゼッケンナンバーの変更がなぜか心に強く残り胸騒ぎがした。【そしてこのゼッケンの変更を上から覗いていた悪魔も見逃さなかった・・・】去年の雅晴の事故の反省からローリングスタート方式がとられ、午前11時25分、第一ヒートの幕が切って落とされた。ペースカーが右にサーッと消えると、グリーンフラッグが大きく振られた。ポールポジションだった黒沢がわざと大き目のローリングをして他者を威嚇(いかく)した。その一周の隙をついて高橋国光の赤いマーチBMWがフライング気味に飛び出していった。これが黒沢の怒りに火をつけた。第1ヒートが終わり午後のドライバーズ・ミーティングはまさに怒声が飛び交うひどいものだった。「高橋君のあのスタートは明らかにフライングだ」「黒沢さんのあのローリングこそひどすぎるよ。あの走りには強い悪意が感じられる」「そうだ、そうだ。ロー・ギアでアクセルをわざとふかしたり、急ブレーキかけたりなんてぶつけようとしているようなもんだ」「なんだと!」この一触即発の喧嘩腰(けんかごし)のやり取りを冷静な第三者の目で見つめていたレーサーが二人いた。一人は裕であり、もう一人は漆原徳光(うるしばらのりみつ)だった。この漆原徳光という人物は不思議な運命を持っていた。漆原は自他ともに認める完全なアマチュア・ドライバーだった。ニックネームはその黒縁メガネをかけた知的な風貌と無口で冷静な日頃のふるまいから、仲間内からはいつも「ドクター(教授)」と呼ばれていた。だからといって医者でも大学教授というわけでもなく、実家は都内で大規模な不動産業を営み、裕や高原と同じプライベーターとして活躍していた。そしてその莫大な財力から常に最新式のマシンを駆使してレースに臨んでいた。のちに家業の不動産業をつぎ高額納税者番付、いわゆる、長者番付に載るほどの日本屈指の大金持ちの一人になる人物だ。漆原は雅晴が死んだ去年のレースで事故の発端(ほったん)になった生沢車に真っ先に巻き込まれた当事者の一人だ。一歩間違えば自分が死んでいた。レースの危険性(おそろしさ)は身に染みるほど体が覚えていた。第一ヒートの黒沢の他車を威嚇するローリングを見てすでに走る気は半分失せていた。予選5位だった漆原は第1ヒートはただ流すのみで10位にまで落ちていた。いや、わざと落としていた。そして第2ヒート前のドライバーズ・ミーティングで完全に切れた。「もうやめだ、やめだ。こんな荒(すさ)んだ雰囲気の中でまっとうなレースなんかできるもんか。俺は降りる」同じプライベーターだが裕も高原もすでにプロのドライバーだ。つまりレースで飯を食っている。しかし漆原にとってレースは単なる趣味の域を出なかった。これで生計を立てているわけではない。心から好きで楽しいからレースをやっているにすぎない。こんな「やくざの喧嘩」みたいな雰囲気の中で、漆原が望む公正なレースができるはずもなかった。この時点で漆原はもう第2ヒートを真面目に走る気がとうに失せていた。この決断が後に彼の命を救うことになるとはこの時の漆原には思いもよらなかった。第2ヒートは午後2時ちょうどにスタートが切られる予定だ。レース前にドライバーたちがスターテイング・グリッド順にパイプ椅子に腰かけ選手紹介を待っている。前列に座る裕は斜め後ろに座っている仲良しの漆原と高原としきりに冗談を言っては笑い合っていた。「ねえ、ドクター、もう走る気ないんでしょ?」漆原は笑って何も答えない。「ヒロシさん、どうして? ドクター、教えてよ」高原が漆原に迫った。「ノリ、第一ヒートの走りを見れば誰だってわかるだろ?本来、僕の席(5番手)にいる筈のドクターがノリより下の10番手だよ。有り得ないよ」漆原は相変わらず黙って笑ったままだ。「ヒロシさん、ちょっとそれひどくない!」と、3人で笑いあった。笑顔を見せていたのは17人のレーサーの中でこの3人だけだった。

残りのレーサたちは皆一応に、苦虫を噛み潰した敵意に満ちた顔をしていた。一言も口を交わす者はいなかった。彼らの心の中にはこんな声が渦巻いていた。「さあ、いよいよ始まるぞ! レースという名の喧嘩(けんか)が・・」正面スタンドには勿論いつも通り、健二と瑞枝を筆頭に風戸フアミリー全員が待機していた。だが由美子だけはいつになく心が落ち着かず一人で控え室にいた。先ほどからの胸騒ぎはいつまでも消えなかった。レースが始まった。ポールポジションの無冠の帝王、高橋国光のマーチ735BMWが抜群のロケットスタートを決めた。すぐ後を黒沢のマーチ745BMWと北野元のマーチ735BMWが並走して激しく追いかける。黒沢はピタリと高橋の真後ろに付けスリップストリームに入った。そのすぐ左横を北野元が並走していると、すぐに黒沢のマシンがドスンと北野のマシンにぶつかった。時速は各車ともすでにギアは5速に入れているから230から250キロには達していた。黒沢からすればそれは「スリップストリームを維持する為の必然」であり、北野にすれば「悪意に満ちた故意」に思えた。2台は数秒の間に3度ぶつかった。3度目の衝突で北野のマーチの左側のタイヤがドスンとグリーン・エリア(芝生)に落ちた。北野のフロントカウルの留め金が衝突の衝撃で飛び散った。ガードレールに猛スピードで突っ込んで行く。速度はすでに230キロを超えている。その時ふいにフロント・カウルが大きく開き、北野の視線を遮った。と、同時にガードレールに一心不乱に向かっていった北野のマーチはクルリと180度向きを変え後続車が殺到するコース中央に突っ込んでいく。北野のマーチは250キロで走ってきた裕のシェブロンと鈴木誠一のローラのど真ん中にぶつかった。裕はブレーキをかける間もなく、北野のマーチが思い切りリアに追突した。衝突の激しい力で押されたシェブロンはさらに勢いが加速され300キロ近くの猛スピードでガードレールに激突し、満タンのガソリンですぐ爆発炎上した。鈴木誠一は目の前に突っ込む北野のマーチに気づきフルブレーキングをしたが間に合わずそのまま衝突、裕と同じ猛スピードでガードレールに激突炎上した。裕と鈴木にぶつかった北野のマーチはそのまま落下し。勝負を捨てて走っていた漆原のマーチと追突した。レースを捨てていたにも関わらずまたも漆原は大事故に巻き込まれてしまった。しかしもし漆原がレースを捨てていなかったら、裕か鈴木の位置にいたのは間違いなかった。レースを捨てていたからこそ後方から走ってきたのだ。北野のマーチにはぶつかったがすでに裕と鈴木に追突した後で衝撃エネルギーがかなり緩んでいた。北野車にぶつかった漆原車は2台ともにコース下に落ち炎上した。北野のマーチに漆原のマーチが大きく乗り上げていた。さすがに常に冷静なドクター漆原は燃えたマシンから即座に抜け出した。その拍子に漆原のマシンの重量で今まで全く身動きが出来なかった北野がようやく動けるようになり30センチほどの隙間出来た。二つンのマシンはすでに激しく燃え始めている。漆原は必死に燃え始めたコックピットの中の北野をその30センチの隙間から力ずくで引上げ救い出した。九死に一生を得た二人はすぐにコース上方で激しく爆発炎上している二台のマシンを見上げた。「ドクター、あの二台は誰だい?」「風戸君と鈴木さんですよ」漆原もあの時の事故車二台が裕と鈴木誠一のものなのか知っているはずがなかった。後になって漆原もなぜそう答えたのかわからないといっている。四台のマシンが激しく爆発炎上し、もらい事故でクラッシュした三台のマシンがコース上に立ち往生している。しかし生き残った十台はレースを辞めなかった。ローリングスタートのように少し速度はゆるめるが、レースを辞めて救出にあたるそぶりは見えない。突如北野がレーシング―スーツのもろ肌を脱いで十台が走るコース上に飛び出していった。「お前らは止まれ! 止まれ! 何考えてるんだ!」「元(がん)さん、いくらなんでもひどすぎるぜ!」泣きながら大声で叫び、激しく両手を振り、いまだにレースを続ける十台の車にむかって行った。それでも十台は止まる気配をみせず、北野の横をすんでのところで通り過ぎていく。北野が危うくひかれそうになって横に飛びのいた。事故発生から2周目を終え、ようやく残りの十台が直線コースに現われて停車した。停車した黒沢のマーチに北野が真っ先に駆け寄った。「黒沢、てめえ何考えてるんだ!」黒沢にものすごい勢いで殴りかかろうとする北野を数人のピットクルーが羽交い絞めをして必死に止めに入った。正面スタンドで観客は白いカウルの一部が青空の中、一筋の弧を描いて高く飛びあがるのを見た。音は全く聞こえなかった。まるでサイレント映画を見ているかのようだった。そのすぐ後を爆音が響き渡り、大きな黒煙が追いかけていった。今まで和やかな雰囲気で5分前に安全に全車のスタートを見送った観客たちの間に衝撃が走った。各ピットでは只ならぬ気配でクルーのメンバーたちが慌てふためいた様子で激しく動き始めていた。「どうしたんだ?」「何が起こったんだ?」「30度バンクで多重衝突事故らしい」「何台巻き込まれたんだ?」「どの車が巻き込まれたんだ?」「ドライバーは大丈夫なのか?」次第にレース関係者や観客席もとてつもない光景を目の当たりにして異常な雰囲気に包まれていた。ピットクルーの怒声がそこら中に渦巻きサーキット内には前代未聞の多重衝突事故の全容が見えてくるにつれ、それを実況するアナウンスが絶叫のように場内に響き渡っていた。誰もがとてつもない多重衝突事故が起こったことは分かっていたが、どの車が巻き込まれ大炎上しているのがどの車なのかはその時、場内の誰にも判断できなかった。まさに観客の目の前のサーキット内は地獄絵図の様相を呈していた。雲一つない晴れ渡った青空にはいつの間にかそれを覆い隠す黒煙がもうもうと広がっていった。四台のマシンが燃え盛る激しい炎上音とオイルが焼け焦げる凄まじい異臭があたりを覆いつくした。さらに観客の恐怖心を煽(あお)る激しいサイレン音と共に何台もの消防車と救急車がレースカーの代わりにサーキット内のあらゆる所を猛スピードで走り回っていた。・・・場内の誰もが激しいパニック状態にいる中で健二は直感ですぐ裕だと思った。(ついにこの日が来たか・・)と心の中でつぶやいた。

と、同時に健二の目の前の直線走路で一陣の風が一瞬激しく舞った。健二にはそれがまるで裕の最後のメッセージのように思えた。やはり健二の予想どうりクラッシュして大炎上していたのは裕と鈴木誠一のマシンだった。後で分かったことだが二人ともクラッシュ直後の即死だった。そして雅晴と同様、激しく炎上するマシンから助け出す術はなかった。二人はその後何時間もマシンの中で燃え続けた。・・・裕の遺体は救出後すぐ緊急ヘリコプターで病院に運ばれ、検視後吉祥寺の自宅に運ばれた。体の一部はすでに炭化していた。「瑞枝と由美ちゃんには見せられないな・・」裕が眠るベッドの横で健二が静かに言った。隣の健士(たけし)が涙を流しながら歯をくいしばって何度も強く頷いた。葬儀も終わり少し落ち着きを取り戻した後、吉祥寺の自宅には裕の遺品を整理する健二と瑞江と由美子の姿あった。健二が裕の免許証入れを何気なく広げてみた。国際ライセンスの下に和紙できれいに包まれた一枚の写真が出てきた。和紙をゆっくりと広げた。裕と佐藤敏彦そして猪瀬が並んでいる写真だった。すでに少し黄色みがかっていた。佐藤敏彦の母がかって裕に渡したものだ。次に本棚の前に立つと目線の高さのところに白い日記らしきものをみつけた。裕の日記帳だった。手に取り何気なくパラパラとめくった。裕の日々の心情がいろいろと書き綴ってあった。健二はあるページに釘付けとなった。レースによって死ぬことが出来るのは仕合せなことかもしれない。何も悩まずに死んで行けるのだから・・・自分から死んで行くことはとても出来ないし、恐ろしい。でもレース中に必然的に死んでしまうのは怖くない。きっと車がぶつかってコースから飛び出したり、ひっくり返っている間に「やばい!」と一瞬思うだけだろう。そのほかの何を考えられるというのか・・。両親のことか、それとも彼女のことか。一個の健康な肉体が瞬時に生命を絶ち、ただの物質にかわる。レーサーにはそれを味わう権利がある。」

 

エピローグ 由美子の巡礼2・昭和50年(1975年)4月

まもなく裕の1周忌になるという4月末、由美子は吉祥寺の裕の実家を訪れた。大好きな瑞枝に会うためだ。「ご無沙汰しています、お母様」裕の死を富士サーキットの控え室で健二から告げられた由美子はその場に崩れ落ちた。しばらくの間とても立てる状態でなかった。しかし、気丈にも葬儀やその後の雑事(ざつじ)もてきぱきとこなし、風戸家の一員として立派にこなした。「ロンドンとイタリアに行ってきたのね」「はい、ロンドンのアパートとモンツアに行ってきました」裕の死後、由美子は少し精神的におかしくなるほど落ち込んだ。周囲は「まさか、後を追うのでは・・」と思うほどであった。でも由美子はそれほど弱くなかった。心の中に強く裕を感じ取るため、裕との思い出の地を一人で訪ね歩いてきた。そしてようやくこれから裕なしで生きていく長い道のりの恐れが徐々に薄らいでいった。瑞江にロンドンやモンツアの思い出の地について明るく報告する由美子の横顔には、これから一人で生きて行こうという強い決意と決心が浮かんでいた。

追記

ブルー・ムーン花言葉

「神の祝福、夢叶う、奇跡、神秘的、不可能なことを成し遂げる」但し、花束の時は要注意「取り戻せない絶望的な愛」

風になったアブラハム 完