風になったアブラハム 第4章 福澤幸雄(サチオ)死す 

第4章 福澤幸雄(サチオ)死す 昭和44年

年が明けた1月の初旬のある午後、神山(こうやま)に1本の電話が掛かってきた。「神山さんですか? こちら鈴鹿サーキットです。去年お問い合わせ頂いていたブラバムのシャーシの件ですがあいにくすべて売り切れてました。誠に申し訳ございません」神山の横にはたまたま店に遊びに来ていた田中健二郎が使い古したパイプ椅子に足を高く組んで座っていた。すっかり冷え切ったコーヒーを片手に持ち、エンジンオイルが所どころこびりついた古いバイク雑誌をパラパラとめくりながら神山のやり取りをそれとなく聞いていた。「靖(やす)ちゃん、フォーミュラやるのかい? 」「うん、風戸がやりたいって言うんだよ。それに俺も興味あるしね。鈴鹿が在庫のシャーシ売るって聞いてたから札(ふだ)入れてたんだ。でもとっくに全部売り切れたって」「あぁ、あのブラバムか。うんっ? まてよ、確か1台名古屋のショップにあるって言ったな。俺、聞いてみようか? 」当時タイヤ剥き出しの葉巻型のフォーミュラカーは日本にはほんの数えるほどしかなく極て珍しかった。1964年からF1参戦していた本田技研がF1の研究用にイギリス製のブラバムBT16(F3用シャーシ)を20台持っていた。そして研究終了後鈴鹿サーキット経由で市場にそのうちの数台を売りに出していた。電話で何やらごそごそ交渉していた健二郎が神山に言った。「靖ちゃん、オーケーだって。値段はオールインの200万。俺の手数料

3%ね。いいかい?」舌をペロッと出して健次郎が言った。「予算少しオーバーだけどまあいいや。健さん、頼むよ。手数料は無しね」(当時の200万円は恐らく今の価値に換算すると800万から1000万円ぐらいか)数日後ブラバムが国分寺の神山モーターズには鈴鹿サーキットからトレーラーで運ばれてきた。到着の知らせを聞いてすぐに裕が駆けつけてきた。もとは裕がフォーミュラに乗りたいと希望していたのだが、今回は神山が自ら勝手に判断して購入した。裕が200万円という金を健二から受けるのは現状とても無理だった。神山もその状況を普段の裕との会話から良く

分かっていた。「誰が乗るんですか?」ブラバムの美しいフォルムに見惚れていた裕が目を輝かせながら尋ねた。「お前しかいないだろう? 他に誰がこんな車乗りこなせるのよ?」「でも今の僕には200万を一度に支払うのは無理ですよ。さすがに親父も納得しません」一瞬、心の中で「いいよ。おまえに貸すよ。俺の道楽で買ったんだ。自由にやってみろ」と言いかけたが、冷静に考えると相手は世界トップの電子顕微鏡メーカーの社長の御曹司。こちらは市井(しせい)のしがない本田のショップ店の親父。形だけとはいえ今は父親が裕のプライベートスポンサーになっている事は神谷もすでに知っていた。だからそんな申し出を裕はともあれ風戸家が受ける由もなかった。「ある時払いの催促なしでいい。余裕が出来たら少しずつ払ってくれ。俺もF3のボディにエスハチのエンジン自分でマウント(搭載)してみたかったからさ。技研(ホンダ)の連中が他のショップに出来るもんかって自慢してたからちょっと腹立ってな」と、目尻を下げて「にやっ」と笑った。それを聞いて裕は小躍りした。律義な裕はさすがに最初からただで乗せてもらうわけにもいかないので30万円だけまず手付金として支払う事にした。残金の支払い予定は裕に任せるという事で神山は快諾した。裕はその夜すぐに健二宛の30万のブラバム購入計画書を詳細に書きあげた。ブラバムが今の日本ではかなり希少価値がある事。それと購入するとその希少性から今後自分にスポンサーがつき易くなる点を理詰めにかつ分かりやすく説明した。その分かりやすい計画書が功を奏したのか健二から翌日即座にオーケーが出た。健二はもちろん未だにレースには反対だった。しかし資金援助はすでに確約していたので、裕の要求が理にかなえばすべて認める事にしていた。裕が健二からブラバムの資金援助の確約を得たまさにその翌日、福澤幸雄(サチオ)がサーキットで死んだ。裕は2月13日の朝刊の記事を見て愕然(がくぜん)となった。

「レーシングドライバー福澤幸雄さん(25歳)事故死」12日午前11時45分、静岡県袋井市(ふくろいし)のヤマハのテストコースで「トヨタ7」の空気抵抗のテスト走行中時速250kmでコースから飛び出し、約90m暴走してカーブ標識に激突、さらに40m程高くジャンプして落下。その後、車はすぐに火を吹きそのまま全焼した。福澤さんは頭がい骨骨折(脳挫傷)と全身火傷で即死した。」この記事は裕だけでなく風戸家全員にも大きな衝撃を与えた。特に母瑞枝の狼狽は見るに堪えないものだった。当時福澤幸雄はレーサーとしてだけでなくその名は世間一般に広く知れ渡っていた。明治の偉人、福沢諭吉のひ孫で父は慶応大学のフランス文学の教授、母はギリシャ人のオペラ歌手。フランスのパリで生まれ幼少期までずっとそこで育った。更にハーフ特有の彫りの深い端正な顔立ちとスタイルの良さから、化粧品のマックスファクターのCMモデルに起用されテレビにも頻繁に出ていた。トヨタパブリカをはじめ様々なポスターのモデルになり、街角に貼られるとすぐに若い女の子たちが奪いあった。当時の人気歌手・小川知子の恋人としても知られ、週刊誌にも何回も取り上げられるまさに「時代の寵児(ちょうじ)」だった。早速(さっそく)風戸家で緊急の家族会議が開かれた。病弱な瑞枝の顔はさらに青ざめやつれていた。瑞枝はもちろんレースに大反対の立場を鮮明に打ち出した。更に会議中ブラバムの30万円の資金提供の話も出たが、「これはすでに了承した事だから約束は破らない」と、健二が話を蒸し返すことなく言質(げんち)を守ってくれた。裕は家族全員の心理状態を機敏に察知して、自分からレースの当面の自粛を申し出た。それでも瑞枝は自粛でなくやめて欲しいと強く抵抗した。しかし、最終的に裕の意志を曲げない不屈の説得に渋々応じざるをえなかった。「危なかったぁ!」部屋に戻った裕はベッドに腰掛け、ほっと胸を撫で下ろした。あとほんの1日ブラバム購入の話が遅ければさすがの健二も資金援助は認めてくれなかっただろう。ベッドに横たわり福澤幸雄の新聞記事を何回も穴のあくほど読み返した。・・・同じころ間もなく20歳(はたち)になる中野雅晴も福澤幸雄の訃報(ふほう)を聞いて打ちのめされていた。雅晴は裕と違いレースに関する資金援助を親から受ける事を良し、としなかった。2年前の5月の船橋のデビュー戦で裕に惨敗したのも、資金援助を受けずに仲間のボロボロのタイヤで参戦した事が一因だった。これに懲りて雅晴はレース後すぐにトヨタ・モーター・スポーツ・クラブ(通称TMSC)に入会した。TMSCに加入すれば当然トヨタから様々な制約は受けるが、最低限のレース参加はクラブから保障されたからだ。それから2年間TMSCでずっと走ってきた雅晴にとって、5歳年上のトヨタのエースドライバー福澤幸雄はまさに憧れでありまるで兄の様な存在だった。雅晴はプライベートでもサチオと親交が深かった。幼少期にお互い孤立した経験を味わった二人は本能的に共通点を感じ取っていた。サチオが取締役をしていたメンズファションメーカー・エドワーズのオフイスには暇さえあれば顔を出していた。またそこでフアッションデザイナーとして働いていたサチオより3歳下の妹、エミともすぐに仲良しになった。サチオとエミに「雅晴君、美味しいもの食べに行こう! 」と、誘われ、六本木のカフエ・レオスや飯倉のキャンティなどによく連れていってもらった。そこでサチオやエミから芸能人やモデル、プロ野球選手の友人を大勢紹介してもらった。雅晴自身もたまにエドワーズのモデルのアルバイトやメンズのデザインでエミのアシスタントもしたりした。それだけに雅晴のショックは計りしれなかった。雅晴も自宅で訃報を新聞で知った時、その場に崩れ落ちた。しばらく息もまともに出来ない程だった。少し落ちついて呼吸を整えてからエミにすぐ電話をした。誰も出なかった。そのあと何十回も電話した。ようやくガチャリ

と受話器を取る乾いた音がした。「もしもし、エミさん? 中野です。中野雅晴です。大丈夫ですか?」もちろん大丈夫の筈がない。「・・・。雅晴君?」少しの沈黙の後、エミはようやく重い口を開いた。あとは泣きじゃくるばかりで言葉にならなかった。「エミさん、しっかりして! 良く聞いて! サチオさんは今どこにいるの?まだ袋井なの? 」激しく泣きじゃくりながらも、エミは鎌倉の実家に遺体がすでに戻っていることを告げた。二日後の2月14日、サチオの葬儀は東京神田のニコライ堂にて近親者のみでしめやかに行われた。列席者の末席に蒼白の顔つきをした黒いスーツ姿の雅晴の姿があった。・・・国分寺の神山モーターズには毎日のように裕の姿があった。裕は健二と瑞枝との約束を守りレースは当面自粛していた。今まで1ヶ月以上レースをあけた事がない裕だったがやってみるとあまり苦ではなかった。レース以外にやる事は山ほどあったからだ。まず大学の遅れていた勉強に真剣に取り組んだ。更に将来を見据え国際A級ライセンスも取得した。合間にオリエント時計のCM撮影で富士を走り、いくばくかのお小遣いも稼いだりした。午前中はいつも静かに机に

向かって勉強している裕を見て瑞枝も精神的に落ち着きを取り戻していた。一方、朝から晩まで神山モーターズでは5月3日のJAFグランプリに向けて着々と準備がなされていた。本田技研の技術者が言っていた通り、ブラバムのシャーシにエスハチのDOHC4気筒エンジンをマウント(搭載)する事は容易ではなかった。しかし難しければ難しいほど、神山の職人魂に火がついた。何日も徹夜を重ね試行錯誤を繰り返しながら、どうにかJAFグランプリの前哨戦である4月6日の富士300kmゴールデンに間に合わせることが出来た。富士でレース前の最終走行テストが行われた。裕と神山を筆頭に神山モーターズのメカニックとボーグルズのメンバー全員が集結した。神山が全身全霊を傾けて作り上げたブラバムホンダの出来は素晴らしいものだった。剥(む)き出しの黒光りしたタイヤが葉巻型のボディの四隅を取り囲んでいた。一人座るのがやっとの狭い運転席の後ろにまた剥き出しのエスハチの白銀色の鈍い光を放つエンジンがドンと据えられていた。裕は白いジェットヘルメットを深めにかぶり、大きなレーシングゴーグルをつけていた。口元は白い布地で何重(いくえ)にも

しっかりと巻かれていた。目の前にはお飾りのようなフロントガラスが形だけチョコンとついていた。フォーミュラカーはアクセルを一踏みすれば簡単に時速200km近くまで一気に出てしまう。その時顎から上を剝き出しにして走る裕の顔には凄まじい風圧が直撃する。座席は裕の体に寸分違わずピッタリに合わせてあった。裕は体をよじるようにしてコックピットに滑り込んだ。ハンドルを握って感触を確かめた。エスハチと違い遊びがまったくない。アクセルもクラッチもブレーキもすべてに遊びがない。特にアクセルは軽く踏んだだけではまったくレスポンス(反応)しなかった。イグニッションを廻した。聞きなれたエスハチのエンジン音が耳に届いた。おそるおそる走りだしてみた。ブラバムホンダはエスハチのエンジンだが全く違うタイプの車に変貌していた。すぐ裕はまるでロデオの暴れ馬に乗った感覚に襲われた。アクセルもブレーキも今までの普通の感覚で操作してもビクともしない。まさに思いっきり蹴飛ばす感覚で操作しないとビクとも反応しなかった。下手に操作するとタイヤはすぐにけたたましい悲鳴を上げて急発進したり、ハンドルに思い切り顔をぶつけるほど急ブレーキがかかったりした。「怖い・・」裕は車の運転で生まれて初めて恐怖感を感じた。(フォーミュラってこんなに違うんだ)無駄なものを一切そぎ落とし、スピードを限界まで追求したフォーミュラカーの本質に初めて触れた気がした。そして今まで知らなかった未知の世界を垣間(かいま)見た気がした。最初の数分間の慣らし運転を終えピットに戻って来た裕を見た芳人は驚いた。顔が青ざめ、唇がまっ白になり、ハンドルを握る両手が小刻みに震えていた。こんな裕を見たのは芳人も初めてだった。「おい裕、大丈夫か? おしっこちびったか? オムツもってこようか?」芳人のジョークに少し気分がほぐれた裕は、顔をひきつらせながらも「にこっ」と笑った。「うん、大丈夫。ありがとう、芳人」裕は神山から細かなアドバイスを受け丁寧に一つずつそれを確認しながら「うん、うん」としきりに頷いていた。二人の横顔にはピンと張り詰めた緊張感が漂っていた。芳人がアイスボックスから瓶のコークを 取り出して、裕に「ほらっ」と渡した。冷えたコークを一口ぐびりと飲んだ。(うまい!)爽やかな炭酸水が裕の緊張感を一緒に喉奥から体内に流し込んでくれた。そして、一息ついてから再び勢いよくコースに飛び出していった。周回を重ねるうちに少しずつコツが飲み込めてきた。(今までのエスハチボディでの運転技術はまるで役に立たない)と、裕は痛感した。エンジンは同じでもアクセルもブレーキも全く別物になっていた。当然コーナリングのコース取りも同じ訳にはいかなかった。何度も心臓が喉から飛び出しそうな思いを繰り返しながら練習時間一杯までひたすら走り込んだ。レース直前まで猛練習はひたすら続けられた。あたかも「無意識に体が車に反応するまで・・」裕の日本グランプリに向けての協力スタッフはゆうに15人を越えていた。これだけの数の大の男たちが、まるで少年のように目を輝かせて「優勝という一つの目標」に向かって邁進(まいしん)していた。裕も神山も、それに他のメンバー全員もこの充実感に酔いしれていた。4月6日富士300kmゴールデンの日を迎えた。昨年の12月8日以来の4カ月ぶりのレースだった。この長い休みが幸いして裕の気力と体力は充実しきっていた。ハンドルを握る裕の瞳には激しい闘争心がみなぎっていた。スタートが切られた。獣のような咆哮がサーキット中に響き渡った。裕のブラバムは抜群のスタートを決めた。1コーナーの30度バンクに向かって各車が一斉に殺到した。このコーナーを一番早く抜けるには

大外のワンラインを取るしかない。それを巡って全車が猛スピードで突っ込んで行く。裕のブラバムも必死でくらいついた。ブラバムホンダは既に裕の手足の一部になっていた。しかし久しぶりの緊張からかコーナー手前でわずかにミッション操作が遅れた。そのすきを逃さず2番手のロータス39に大外のラインを取られた。裕は仕方なく内側のラインに甘んじ2番手でコーナーを抜けた。「久しぶりだからあまり無理するな」という神山のアドバイスもあり、結局そのまま2位でゴールを駆け抜けた。驚くべき事はそのタイムだった。裕がエスハチの時に出した富士のコース・レコードの2分22秒1を

同じエンジンでなんと7秒近くも縮めていた。その夜はメンバー全員、チーム定宿の一つの河口湖湖畔の富士レークホテル

に泊まった。裕の2位のお祝いと1位になれなかった反省会を兼ねたドンチャン騒ぎの大宴会は夜遅くまで続けられた。明け方、裕と神山の二人の姿が大浴場にあった。ガラス越しに河口湖と富士山が一望のもとに見えた。裕は朝日に輝く富士を見て身が引き締まる思いだった。(今年はいい事が起こりそうだな)二人でいつまでも光り輝く富士と河口湖を湯につかって眺めていた。桜色に火照った顔の瞳は朝焼けに映えて光輝いて見えた。一ヶ月後のJAFグランプリに向けて裕と神山のチームスタッフの懸命なマシン調整が続けられた。セッティングを少しでも変えた時は、まず神山が先に一人でコースを走りブラバム自体に不具合がないかを丹念に調べた。マシン側に問題がない事を確認してから、裕が最後のドライビング調整を行った。メカニックの専門知識を身に付けていた福澤幸雄は未知の車の状態を調べるテストドライバーの役割も兼ねていたが、裕は自分にはその能力がない事を良く分かっていた。あくまでも調整は自分が信じきったプロの神山に一任する。途中で余計な口は一切挟(はさ)まない。そして神山から譲り受けた最高の状態のマシンを磨きあげた自分の腕で操る。それが裕のポリシーだった。JAFグランプリは個人7位、クラス2位の好成績を収めた。更に最もクレバーな走りをしたドライバーと素晴らしいチューニングマシンに贈られる性能指数賞と賞金15万円まで貰った。その後神山と裕のブラバム

コンビでの戦いは8月末まで3回続けられた。うち1回はリタイアしたが2回はクラス優勝と素晴らしい成績を収めた。神山はこの裕とのコンビのブラバムのレースでサーキットから手を引く事を前から決めていた。レースという道楽にのめり込み過ぎて本業の代理店経営がかなり苦しくなっていた。お母ちゃんにも最近散々嫌味を言われていた。そのことは裕にも前から告げており納得を得ていた。8月10日のブラバムホンダで出場するNETスピードカップの前日にこんな事があった。その前日、健二と瑞枝の二人は箱根の別荘にいた。突然裕が何の前触れもなくフラリとやってきた。3人で宮の下の富士屋ホテルのレストランでランチを食べた。店内は親子連れで一杯だった。裕は真っ黒に日焼けした笑顔でとても元気そうだった。瑞枝はそんな裕を久しぶりに見てとてもうれしかった。「どうだい調子は? 明日レースなんだろう?」フォークとナイフを器用に使いながら健二が尋ねた。瑞枝も笑顔で裕を見つめている。タルタルソースをたっぷりつけた海老フライを口一杯に頬張りながら裕は答えた。「わぁーっ、この海老フライ、うまいね。うますぎる!」答えになっていなかった。

「あっ、明日はフォーミュラのレースだよ。お父さんわかるかな?葉巻みたいな形の車でとてもかっこいいよ。良かったら二人で見においでよ。面白いよ」と、さらりと言った。健二が一瞬苦虫を噛み潰したような顔をした。(資金援助はするがレースは心では認めていない)その表情は物の見事にその意思を表していた。その時瑞枝から信じられない魔法の言葉が発せられた。「お父さん、明日は別にこれといった用事もないし、行ってみましょうよ。箱根にはめったに来れないし、いい機会ですから。裕がどんな事やっているか一度見ておきたいわ」健二がポカンと口をあけて驚いた顔つきで瑞枝を見つめていた。裕は心の中で(よっしゃあ! )と、大きなガッツポーズをした。もちろん顔にはおくびにも出さなかったが・・・。翌朝二人は健二の運転で富士スピードウエイに出かけた。観客席はたくさんの若者の熱気で溢れかえっていた。サーキットには色取り取りの派手な車が走り、スタンドにはTシャツ1枚で「これでもか!」とドーンと突き出た

胸の若い女の子たちと、その取り巻きの男たちで一杯だった。「私たちの来るところではないね」ハンカチで額を拭いながら健二が瑞枝に話しかけた。「そうですね。また人の数ももの凄いですねえ」瑞枝も周りの雰囲気に圧倒された様子で答えた。レースが始まろうとしていた。レースは2回行われる。まず1回目の第一ヒ―トがスタートしようとしていた。スターティンググリッドを見て健二は驚いた。そこにはニッサンR381やシボレーの7リッターカー(7000cc)トヨタの5リッターカー(5000cc)など、日頃街中で滅多に見られない大排気量車が勢揃いしてスタートを今や遅しと待ちかまえていた。(どれどれ、我が愛する息子の裕君の車はどれかな?)と、前から後ろまで目で追ってみた。(確かゼッケンナンバー1だったよな? )ようやく後ろの方にゼッケンナンバー1番のちっぽけで頼りなげな1台の車を発見した。健二にはわずか800ccの剥き出しのエンジンの上にグラスフアイバーのカバーをただそのまま被(かぶ)せただけに見えた。まるで大人の集団の中に紛れ込んだ一人の小学生のようだ。(何故こんな大きな車たちとあんなちっぽけな車が一緒に走れるのだろう?)健二は不思議に思った。スタートが切られた。耳をつんざく爆音とともに何十台というマシンが煙幕のような白煙を噴き出して一斉に動き出す様は壮観だった。「目の前で見るとさすがに迫力が違うなぁ」戦時中戦艦「陸奥(むつ)」に乗っていた健二もやはりこういうメカニックな物に魅了されるタイプだった。これに反して瑞枝はまったく興味がなかった。自動車の競争のどこが楽しいのかまるで理解できなかった。「お父さん、大きな音ですねぇ」サーキットを疾走する大集団の車の群れと大観衆の叫び声で何も聞こえなかった。健二と瑞枝が立っていたメインスタンドの上段は特にマシンの走る音が他の席よりも良く響いた。レースは2週目に入った。トップ集団のビッグマシン群が健二と瑞枝の前を猛スピードで通過して行った。長いストレートなので各車が能力限界までの最高スピードを出し切って行った。大学生の中で走る小学生のような裕も負けていなかった。ビッグマシンの音は腹に響く重低音だが裕の小粒マシンは腹に響かない。ヒステリックな甲高い金属音をけたたましく響かせて目の前を通過して行った。「大きな音ですねぇ 」この言葉を最後に瑞枝はもう口もきけなくなってしまった。しまいには怖くて見ていられなくなり、とうとう目をつぶり耳を両手で塞いでしまった。瑞枝の隣で見ていた健二もさすがに気が気でなかった。サラブレッドの群の競争の中に小さなポニーが1頭紛れ込んで必死に走っているようなものだ。(どんなに騎手の腕が良くても走る馬がこれでは最初(ハナ)から勝負にならないな)11週目なって裕の車だけが正面スタンド前になかなか戻って来なかった。瑞枝の顔が引きつった。「お父さん、どうしたんですかね? 裕だけ走っていないわ」さすがの健二も背筋が凍りついた。いつも思い描いていた悪い夢が現実になるのか?「ゼッケン一番、コーヤマスペシャル風戸選手、100Rでスピンした模様です。詳細は不明です。分かり次第お知らせいたします」若い女性の声で場内アナウンスが流れた。(生きているだろうか? )二人はひたすら次のアナウンスを待った。健二は固唾(かたず)を飲んでスピーカーの方向を見つめていた。瑞枝は目をしっかりと閉じ、胸の前に両手を組んでいた。その手は小刻みに

震えていた。「コーヤマスペシャル風戸選手、ガードレールに接触してリタイアです」しばらくして次のアナウンスがようやく流れた。少し経つと裕が人混みの中を縫うようにしてやってきた。額には汗をびっしょりかき、真っ赤な顔をして「はあ、はあ」と息を切らしていた。「お父さんお母さん、ごめんなさい。ちょっと無理し過ぎちゃった。次のレースでは気をつけるから心配しないで」と、苦笑いを浮かべて身体を小さくして言った。エンジンの調子が予選から芳しくなかったまま本戦に臨んだ裕はコーナーで限界を越えて思わず突っ込んでしまい、そのままスピンしてガードレールにぶつかった。そしてマシンが動けなくなったのですぐにリタイアした。それからすぐに健二たちに無事な顔を見せる為にピットにも寄らず

スタンドに一目散に駆けつけて来たのだった。スタート前と変わらない元気な裕の笑顔に瑞枝は生き帰る思いだった。「オイオイ、お母さんの前で心配掛けなさんな。無理するなというのは資金援助の条件だよ」と、健二が口を尖らせながらも思わず顔を綻(ほころ)ばせた。裕は二人の前でかなり恐縮していた。「よし、分かった。何より無事で良かった。次のレースも頑張っておいで」と、片手でポンと裕の肩を叩いて健二が明るく言った。瑞枝も優しい笑顔で二人の様子を見ていた。裕はこれ以上ないという爽やかな笑顔を浮かべ小走りにピットに戻っていった。健二との約束通り第2ヒ―トでは調子の悪いエンジンをだましながらなんとか無事に完走した。第1ヒ―トより無理せず安全に走ったにも拘(かかわ)らず上位にいた車が次々とリタイしていった。結局第2ヒートで5位になり、クラス優勝まで転がり込んできた。(こんな事もあるんだなぁ。レースはやってみないとわからないもんだ)と、心の中で裕が一番驚いた。その夜、別荘のリビングで健二と瑞枝が遅くまで話をしていた。洋風の瀟洒(しょうしゃ)な室内には高価な調度品が数多く揃えられていた。部屋の片隅にはカナダのハンプトン社製のまきストーブがあり、二人の間には特注のソリッドマホガニーのテーブルが置かれていた。その横に

暖色系のダウンライトが明りを絞り二人を照らしていた。大好きなコーヒーを右手に持ち健二が笑顔で話しかけた。「今日は怖かったね」優しい笑みを浮かべて健二が言った。「はい、本当に。私は寿命が10年は縮みましたよ」「あはは。本当に困った次男坊だね」健二の目が笑っていた。「そうですねぇ。本当に困った子」慈愛に満ちた目で瑞枝が答えた。「やめろといっても聞くと思うかね?」「無理でしょうね」二人は微笑みを浮かべお互いに美味しそうにコーヒーを飲んだ。夜更けなのに窓の外からツクツクボウシの声がとぎれとぎれに聞こえていた。瑞枝が先に寝たあと健二は一人リビングでブランデーグラスを片手に物思いにふけっていた。世間一般の良識のある親ならレースをやめさせるのが普通の行動だろう。しかし、戦時中常に「死」といつも隣合わせに生きて来た健二にとって、死を避けるために心から好きな事を無理にやめさせる選択肢は頭になかった。しばらくして瑞枝が起きて来て健二の前に腰掛けた。瑞枝も健二の胸の内は分かっていた。「もうやめさせるのは無理だと思う。それなら今よりもっと大きくて安全な車を与えて思い切り戦わせたいと思う。どうだろうか?」一度大きく溜息をついてから瑞枝がさりげなく言った。「仕方ないですね」「大排気量車を買ってあげる」という事は実質的に健二と瑞枝が裕のレースを公(おおやけ)に認め、その後の資金援助も健二が保障する事を意味した。数日後、風戸家でまた緊急の家族会議が開かれた。今回の議長は健二だった。裕は今日の家族会議の主旨が読めなかった。(あのレースを見てお母さんが「もうやめさせて」と、お父さんに言ったのかなぁ?)不安が脳裏をよぎった。健二がまず口火を切った「あの葉巻型のミニチュアカーは頂けないね。お父さんとお母さんの寿命がお互い10年は縮んだよ」裕は固唾(かたず)を飲んで次のことばを待った。「もっとちゃんとした車を買いなさい。今後お父さんが正式なスポンサーになる」裕はあまりに驚き過ぎてしばらく何も言えなかった。やがて「ひっくひっく」としゃくりあげながら泣きはじめた。「うっうっうっ、今の僕は今まで生きてきた人生の中で一番幸せです!」裕を除いた家族4人がそれを見て笑い転げた。特に兄の健士は笑い過ぎて椅子ごと後ろにひっくり返ってしまった。裕もそれを見て半ベソをかきながら笑いだした。翌朝電話で神山にすぐ相談した。「風戸、俺のところはもうレースから手を引くから手伝えないけど、健さん(田中健二郎)に話しておくよ。タキレーシングなら健さんがしっかりお前の面倒みてくれるし、優秀なメカニックが大勢揃っている。お前ならタキに行けば絶対もっと早くなれる。俺が太鼓判押すよ」電話の向こうで神山が少し涙ぐんで言った。

第4章 完