風になったアブラハム 第1章 ベンチャーズとボーグルズ

第1章 ベンチャーズとボーグルズ 昭和39年~

東京オリンピックが行われ、東海道新幹線ひかりが開通した昭和39年の春、洗礼名・アブラハムこと風戸裕は15歳の高校1年生に成長していた。

裕の父、風戸健二は裕の生まれた年に電子顕微鏡の製造・販売の会社を立ち上げ裕の成長とともに業績は右肩上がりに順調に伸びていた。今では電子顕微鏡の分野では日本だけでなく世界のトップクラスに入るほどの大手企業にまでに成長していた。少し病弱だが優しい母の瑞枝(みずえ)は健二と3人の子供をしっかり支えていた。二人の愛情を一身に受けた末っ子の裕は好奇心旺盛だが、心優しい素直な少年に成長していた。

小学生の時に友人の父親から一度レース鳩を見せてもらったことがあった。その無駄のない容姿の美しさとすべてのアスリート特有の精悍な眼差しと機敏な動きにすっかり魅了されてしまった。それ以来どうしても伝書鳩が欲しくてたまらなくなった。毎日友人の鳩小屋まで見に行き、日が暮れるまでいつまでも飽きずに眺めていた。そんなある日そろりそろりとダメもとで瑞枝に伝書鳩を飼いたいと頼んでみた。意外にも「地元の吉祥寺にある成蹊中学に合格したら飼ってもよい」と、言う条件で許しを得た。欲しいものが明確に見えた時の裕の集中力は物凄かった。一人で中学受験の名門四谷大塚予備校の入学手続きをささっと決めてきて、毎週山手線の大塚まで電車で通い、数か月間だけ死に物狂いで勉強した。そしてついに補欠だったが何とかうまく成蹊中学に滑り込んでしまった。

中学生になってからは伝書鳩のレースに夢中になり、武蔵野地区の大会に何度も好成績を残すような優秀なレース鳩を育て上げた。その熱中ぶりがまた半端でなく、レース鳩に関する本は手に入るものはすべて買いまくり、鳩の骨格や体の作りはもちろんのこと、生態学や解剖学まで調べまくった。餌の配合もどのようにしたら無駄がなく、効率よく鳩のエネルギーを燃焼できるのかを関係する文献を図書館で調べて資料にした。。

しかし、やがて高校生になり東京オリンピックの開会式で鳩を一斉に飛ばす放鳩(ほうばと)の行事に参加してからは、鳩レースへの情熱は徐々に冷めていった。高校生になってからは身長も急に伸び、高一の夏にはすでに170cmを越えるまでになっていた。身体の急速な成長と共に心は思春期の真只中になっていた。興味はもう伝書鳩どころではなくなっていた。同級生の女子学生の胸のふくらみが日増しに目立つようになり、少女から大人の女性へと成長をとげ、甘い香りをあたりに振りまくようになると、裕の興味は鳩レースから女子学生と彼女たちが話題にしているベンチャーズの二つに向けられるようになった。

放課後の音楽室にはいつも同じ3人がベンチャーズの曲を練習していた。裕と同じ一年のリードギターの芳人、ドラムの杉山、ベースの村ポン(村本)の三人だった。

「村ポン、僕も仲間に入れてくれよ」と、裕は同級生の村本に話しかけた。

「いいけど、風戸君は何が出来るの? ギターは弾ける?」

「いや、ギターは弾けないけど、エレクトーンならなんとかなるよ」(嘘だった)

「あっ、そうなんだ。キーボードちょうど欲しかったんだ。 すぐ一緒にやろうよ。」

翌日から裕も加わって放課後毎日、音楽室でベンチャーズの練習をした。最初はあまり上手に弾けなかったエレクトーンも持ち前の集中力と猛練習で少しずつ腕を上げていった。更に瑞枝にねだってエレキギターも買ってもらい、自宅で毎晩おそくまで練習に明け暮れた。

「テケッテケッテケッテー」

「今日は“10番街の殺人”と“ダイヤモンドヘッド”をやります」

バンドメンバーに入って数カ月後、裕はすでにリズムギターとキーボードの両方のパートを担当していた。このころには体重は53kgだが身長はすでに175cmに達していた。だから他のメンバーより楽器の腕ははイマイチだったが、ステージにあがると見栄えが良く、目立って見えた。髪もみなの真似をして少し長く伸ばし始めた。

裕のバンド「ボーグルズ」(お化けという意味)は、そのうちに女子学生たちから熱い視線を受けるようになっていった。そのうち校内では、芳人と裕目当てのファンクラブまで出来るようになった。秋の成蹊高校の文化祭はもちろんのこと、武蔵野市の慈善チャリティ・コンサートにも度々招かれるまでになっていた。ボーグルズのメンバーといる時、裕は心から楽しかった。趣味が合う同い年の友達ほど一緒にいて楽しいものはない。4人集まればいつも話題は「まず音楽、つぎに女の子、そしファッション」と必ず決まっていた。親には「勉強する」と、言ってはメンバーの誰かの家に泊まり、ほとんど毎晩おしゃべりをして朝まで過ごした。

「VANがかっこいい。今度新宿まで買いに行こうよ。ジョウジ(吉祥寺)じゃ売ってないし」と裕。

「俺は横浜のフクゾーがいいなぁ。白のポロシャツが欲しいんだ。あのタツノオトシゴのロゴ・マークがまたイカしてるんだな。“フクゾー着てると女の子にもてる”て誰か言ってたよ。でも元町の本店でしか売ってないし、値段もかなり高いよ」と、芳人。

その時初めてフクゾーというブランドを知った裕は、“フクゾー着てると女の子にもてる”という芳人の言葉が耳にこびりついた。次の休日になるとすぐに一人で横浜元町まで行き、フクゾーで白のポロシャツと青のトレーナーを買ってきた。なぜか裕の感性にフクゾーのデザインはピタリと合った。服の材質もいいので着心地も素晴らしかった。それ以来大のお気に入りとなり、ずっと愛用するようになった。

リーダー各の芳人と裕の二人がいつも会話の中心だった。あとの二人は楽しそうに相槌を打ち、時折茶々を入れた。こんな生活を半年以上続けた結果、4人中ドラムの杉山以外の3人がそろって留年してしまった。それでも3人はまったく気にする素振りも見せなかった。裕なんかは「もう一回一年生やれてラッキー!」などと嘯いていた。

健二も瑞枝もさすがに留年と聞いてあきれた。しかし、裕と同じ年頃に全く自由のない、規律の厳しい海軍兵学校を経験していた健二は(いい時代になったものだ)と心から思った。あまりにあっけらかんとしている裕を見て、瑞枝と顔を見合わせ思わず二人で吹き出してしまった。

留年組3人をいれたボーグルズのメンバーの遊び方は留年しても変わらなかった。 しかしリーダー各の一人の芳人が

「さすがに留年はもうこりごりだ!」という事で、「二度と留年しない会」を結成し、留年をしない最低限の勉強は三人で協力して乗り越える事にした。今までは試験中でもメンバーの家で一晩中おしゃべりばかりしていたが、試験期間中だけは皆で協力徹夜して一夜漬け勉強でなんとか全員赤点(35点以下)一科目もを取らずに乗り切った。

「みんな、いい点なんてとらなくていいよ」と芳人が檄を上げる。

「目標は一科目でも赤点を取らないこと」裕がすかさず合いの手を入れる。

「えいえい、おうー」三人で。

3月に16歳になった裕はすぐに軽自動車の運転免許を取りに行った。そして健二に頼んでマツダ・キャロル360ccを買ってもらった。特注のキャロルは裕の免許交付日の前日に自宅に納入された。本来、裕は「オートバイを買って欲しい」と、健二に頼んでいた。だが少し前に兄の健士がオートバイで転倒して足を骨折する大怪我をしていた。それと裕の一つの事に激しくのめり込む性格を両親は熟知していたので、オートバイよりまだ4輪の方が安全だと考えた。家族会議の結果、

「裕君、オートバイは却下します。自動車ならまだ安全なので許可します」と、いう裁定がまだ足に生々しい白いギブスをしている議長の健士から言い渡された。裕もこれに快く同意し、360ccながらオートバイの代わりに四輪自動車が裕に買い与えられた。

明日キャロルが風戸家に納入されるという夜、ボーグルズのメンバー全員が裕の部屋に集結した。キャロルのカタログを4人で覆いかぶさるように囲みながら皆ひどく興奮していた。

「裕の車があれば、俺たちの行動範囲は遥かに広がるよなぁ」

「軽だけどみんなが乗り易いように4ドアにしたよ。それにお父さんがカラーリングも特注にしてくれるって」と裕。

「どういうカラーリングなの? 」

「ブルーのボディにルーフはクリーム色だよ」

と、全員で、

「イッツ、ソー・クール!(かっこいい!)」と、同時に口を揃えて大笑いした。

「でも、初乗りはお父さんを横に乗せるって約束してるんだ。なにせ大事なスポンサーだからね」

「全然、問題なし! 」

「異議なし! 」

「裕のお父さんは最高だよ。俺たちの事、良く理解してくれるしさ。ちゃんと一人前の大人として扱ってくれる。うちの親父なんか俺と顔合わせると 怖い顔して”勉強しろ”しか言わないぜ」と、芳人が口を尖らせた。

「俺たち留年組のリーダーの芳人様がよく言うよ。芳人、言われて勉強した事あるの?」裕が混ぜ返した。

「えへん! 自慢じゃないが一度もない!」と、またまた皆で大爆笑した。

裕が車を持ってからボーグルズのメンバーは音楽や女の子、フアッションよりも車の魅力に日増しに魅せられていった。もちろん車に関しては、キャロルのオーナーである裕が自然とリーダーシップをとっていった。平日は暇さえあればボーグルズの仲間とドライブをし、休日はガレージでみんなで集まってエンジンをバラしたりチューニングをしたりして一日中過ごした。特に芳人は生来手先がとても器用なのでメカニックの腕をどんどん上げていった。

寝食も忘れるほどの楽しい時間はいつもあっという間に過ぎていった。特にモータースポーツへの裕ののめり込み方は皆が目を見張るほど凄まじかった。そのうち、一人でも船橋サーキットまでレースを観に行くようになった。そこで知り合った車を持つ若い仲間たちから「マッド・ドラッカーズ」という、慶応大学の学生が中心で作ったジムカ―ナ中心のレースを楽しむクラブチームに誘われた。

ボーグルズの仲間もそのチームに引き入れ、彼らはいつのまにか裕のレース・サポート・メンバーみたいになっていった。また裕は、前の車が何台もリタイアというラッキーなジムカ―ナで一度優勝を味わってから、一層モータースポーツの虜になっていった。

「今度、船橋で浮谷東次郎(うきやとうじろう)が出るレースがあるから行こうよ」と、裕が芳人を誘った。

「浮谷って、あの分厚い黒縁メガネかけたお兄ちゃんだろう? 普段いつもゴム草履はいて、背の低い奴」

「でも浮谷の走りは本当にクレージーだよ。生沢(徹)はいつもペース配分を計算した味気ない走りをするけど、東次郎はそんなチマチマした事まったく思っていない。ひたすら野生の勘のみで走るって感じ。前に一度、練習中の走りを船橋で見たけど、本当にすごかったよ。周りの車がまるで止まっているように見えたもの。本番のレースならきっともっとすごいと思うよ」

「へーっ そうなんだ。そりゃあ、一度観て生でみないとな。行ってみるか? 」芳人が横の村ポンにふった。

「うん、僕も観てみたい。行こう、行こう」

昭和40年、7月8日、ボ―グルズ4人のメンバーは早朝から裕のキャロルで少し前に完成したばかりの船橋サーキット場に向かった。あいにく朝から雨が強くふっており、荒れ模様のレース展開が予想された。ハンドルを握っている裕に向かって助手席の芳人が話しかけてきた。右手に餡(あん)パン、左手に雪印の白い牛乳瓶をもっている。餡パンを「はふっ」と、ひと口頬張ると、「グビッグビッ」と、牛乳で一気に流し込んでいた。

「こんな凄い雨だとレースに影響するだろうな」

「結構雨足強いからね。みんなフルスピードで一斉にコーナーに突っ込むから、一台がスリップしたら怖いよね。あんなスピードでハンドル取られたら一発で横にふっ飛ばされるよ。下手したら(あの世へ)いっちゃうよ」と、裕は少し眉をひそめて言った。

みんなでワイワイガヤガヤ車の中で話しているうちにいつのまにかサーキットの駐車場に着いた。早めに家を出たのにすでに駐車場は満車に近かった。サーキットの中は雨にも関わらず3万5千人の若者たちであふれかえっていた。当時富士スピードウエイはまだ出来ておらず、この船橋サーキットが関東を代表するレースコースであった。前もって約束してた場所にはすでにマッド・ドラッカーズの主要メンバー3人が待っていた。その中の一人で、裕より3歳年上の慶応大学の学生でチーム・リーダーの西川順(にしかわじゅん)が声をかけてきた。

「風戸君、こっち、こっち」芋を洗うような人混みの向こうで西川が大きく手招きをしていた。

「西川さん、おはようございます。すごい人ですね」人混みの中をを縫うように這い出して来た裕が、観客席の溢れんばかりの 大観衆を眺めて言った。

「仕方ないよ、今日はCCCレースの決勝だからね。あっちなんか生沢目当ての女の子で一杯だよ」と、コースに生沢徹(いくさわ てつ)が乗る車を顎でくいッと指して西川が言った。見ると15人ほどの若い十代の女の子達がフェンス越しに生沢の車の近くに集まっていた。

「でも俺たちは東次郎目当てだけどな。東次郎の本番での走りは本当に凄いらしいぜ。あいつ午後の決勝はヨタハチ(トヨタ・スポーツ・800cc)で走るみたいだな」

全日本CCCレースとは、全日本自動車クラブ選手権レース大会のことで、英語ではオール・ジャパン・ー・ラブ・ャンピオンシップとなり、このイニシャルを取って、当時のレースフアンの間では、通称CCCレースと呼ばれていた。

浮谷東次郎はこのレースの2日前に23歳になったばかりで、トヨタ・モーター・スポーツ・クラブ(TMSC)所属の新進気鋭の若手レーサーだ。アメリカ留学の時に本格的なレース技術を身に付け、一年ほど前に帰国したばかりだった。小柄の丸い顔で、牛乳瓶の底のようなぶ厚いレンズの太い黒ぶちの眼鏡をかけ、髪の毛は坊ちゃん刈りに近いボサボサあたまでフケが浮いているし、本番のレース以外はいつも使い古したゴム草履をはいていた。だから若い女の子からはまったくと言っていいほど人気がなかった。むしろ憧れの徹(てつ)さまの邪魔をする敵役として、東次郎が出てくると少女たちは険しい眼で一斉に睨みつけた。

彼女達はみな生沢徹に夢中だった。スラッとした長身で、流行りの長髪、モデルも逃げ出したくなるほどの甘いマスクを持つ抜群の美男子だった。父親は有名な挿絵画家で生沢朗、更にかなりの資産家の息子だった。当時はグループ・サウンズ人気の走りの時期でもあったので、グル―プ・サウンズのイケメンスターを追いかける感覚で、レース場には美形のレーサー目当ての女の子が押し掛けていた。一方、東次郎はというとその型破りでダイナミックな走りで、レース好きのマニアックな若い男のフアンたちから絶大な支持を集めていた。

しばらく西川たちドラッカーズのメンバーとジムカーナの話で盛り上がった後、裕は彼らの後ろに見慣れない一人の少年が静かに立っているのに気がついた。髪の毛は肩の上まで伸び、背は裕よりやや低い位だから170cmちょっとだ。ただしかなり痩せていた。おそらく50kgあるかないかのようだ。眉はきりっと濃く、輪郭はきれいなたまご型の細おもてで、まるでグループ・サウンズのメンバーのように見えた。少年と言うよりむしろ少女のようなきれいな顔立ちをしていた。その佇まいからいかにも硝子のように繊細そうな少年に見えた。

「風戸君、紹介するよ。彼、目白のグループ・リーダーの中野雅晴(なかのまさはる)君。今、日大二高の2年生。少し前までオートバイやってたけど、今年からスバル360で四輪のジムカ―ナに正式参戦する予定だ。レースでこれからしょっちゅう会うと思うから仲よくしてやってよ。見た感じ女の子みたいだけど、走りはかなり男っぽくて手ごわいよ」

西川のちょっと荒っぽい紹介に中野は、少し照れ笑いを浮かべながらスッと裕に右手を差し出してきた。白くて華奢で、まるでピアニストのようなきれいな指だった。

「はじめまして。中野雅晴です。今、日大二高の2年生です。よろしく」

「風戸裕です。今、成蹊高校1年だけど、本当なら2年生です。今年ダブりました。年齢は君と同じ16歳です.こちらこそ、よろしくお願いします」

「そう風戸君と彼らは勉強が大好きで。1年生を2回やってるんだよ」と西川がいうと、みんなで爆笑した。これがその後、昭和の日本のモーター・スポーツ界で伝説となるライバル二人の初めての出会いだった。

午後になり、みんながお目当てのGT―1レースが始まった。トヨタはこのレースにこれがデビューとなるトヨタ・スポーツ・800(このあとヨタハチの愛称でフアンから長く愛される)を4台送り込んできた。このうちの一台、ゼッケンナンバー20が浮谷東次郎の車(マシン)だ。

日産はブルーバードSSでベテランの黒沢元治と田中健二郎の2台。ダイハツはコンバーノ・スパイダー、日野はコンテッサ1300で各2台ずつ出してきた。個人参加では若い女の子に絶大な人気を誇る世紀の色男、生沢徹はホンダS600(通称エスロク)でエントリーしてきた。他にもイタリアの高性能車アバルト・ビアルベーロ(立原義次)、トライアンフ・スピットファイア、オースティン・ヒーレー・スプライト、ミニクーパーSなど当時のモーターフアン垂涎の名車が勢ぞろいしていた。

レースが始まった。スタートから立原のアバルトがロケットスタートで先行し、その後を生沢のエスロクと浮谷のヨタハチが揉み合うように猛然と後を追いかけた。4週目の最終コーナーで生沢のエスロクが急にスピンして半回転した。そのすぐ後ろで生沢を追いかけていた浮谷のヨタハチはさすがによけ切れず、エスロクのドアに激しくぶつかり、右フェンダーを内側に大きくへこませてしまった。タイヤがへこんだフェンダーにあたり、ガリッガリッガリッ、ともの凄い音を上げ始めた。

「チェッ、やっちゃった」東次郎は舌打ちしながらピットインせざるを得なかった。このままではスピードは出せず、続ければタイヤがバーストするのは時間の問題だからだ。一方の生沢はドアを東次郎にへこまされただけで、走りには全く問題がなかった。

ピットインした東次郎はメカニックが応急処置をしている間、一言も発せず、うろたえることもがっかりする様子も見せることなく、落ち着いてひたすら空の一点をずっと見つめていた。一方、チーフ・メカニックの多賀は

「駄目だ、こりゃ。ずいぶん派手にやってくれたな、東次郎。おーい、誰かハンマー持ってこい。内側からぶっ叩いてみろ!」

「了解!」若手のメカニックの一人が車の下に素早くもぐりこみ、潰れたフェンダーの内側から思いっきり叩き上げた。カーン、カーンと小気味よい音がピット内一面に響き渡った。

「チーフ、うまいことタイヤからはずれました。タイヤは問題無し。、食い込みもまったくなしです」

「よし、東次郎、オッケーだ! 行ってこい!」

多賀はボンネットの後部を平手でポーンと叩いた。多賀の合図に、今まで黙って空を見あげていた、東次郎が大きくうなずき、同時に鼓膜が破れんばかりのけたたましいエグゾースト・ノートと野鳥の叫び声のような甲高いタイヤのスリップ音を残してピットから勢い良く飛び出して行った。

(テツ、待ってろよ!)東次郎の勝負魂に激しく火が付いた。

一周2・4kmのコースを30周するスプリントレース(短距離レース)で、わずか50分ほどのレースだ。一度ピットインしたら上位入賞などまず有り得なかった。普通だったらレースをリタイアする状況であった。だが、東次郎は決して諦めなかった。再スタートした時の順位は16位だ。その後見事なハンドルさばきで後続車をコーナーで次々と抜き去って行った。最初、裕を含めた観客全員は東次郎の追い上げに気が付いていなかった。

ピットインした時点で

「あぁ、さすがの東次郎も今回は終わった」と見限り、先頭を走る生沢と二番手の田中健二郎とのトップ争いに注目していた。そのうち一台の右フエンダ―を潰した、みすぼらしいヨタハチが後方から異次元の走りをしてきた。それに気がついた観客が次第にざわつき始めた。

「オイオイ、なんかうしろのほうから一台、物凄いのが来てるぞ」

「東次郎のヨタハチだ!」

すでに観客の目は生沢らの先頭集団でなく、後ろから狂ったようなスピ―ドで飛んでくる一台の車に釘付けとなっていた。その速さは他の車に比べるとまさに異次元の走りだった。同じヨタハチが他に3台も出走しているのに、ほかのヨタハチとはまったく違った車種のように見えた。7週目に12位、9週目に10位、16週目に7位、なんと18週目には先行の2台がリタイアし、一気に4位にまで浮上した。

東次郎は抜くときに激しくパッシング・ライトを点滅させ、矢のように一台また一台と鮮やかに抜き去っていく。この時悠然とトップを走っていたのは東次郎とクラッシュした生沢徹のエスロクだった。ドアのへこみ以外はきれいな状態のエスロクは2位の田中健二郎を大きく引き離し楽勝に思われた。生沢自身もこの時自分の勝利を確信していた。そこに少し油断が生まれた。20週目をこえたあたりで、ふと気がつくと後ろから前歯のない味噌っ歯のような車が猛然とパッシングライトを点滅させながら、急速に迫ってきていた。

「ヨタハチだ。東次郎の奴だ!」

20週目から生沢と東次郎の激しいバトルが続いた。コーナーで東次郎はパッシング・ライトの点滅を目まぐるしく繰り返し、生沢を心理的にも激しく追い詰めていった。

「ちくしょう! 油断するんじゃなかった」

生沢はすでに背後から恐怖心すら感じ始めていた。背中にうっすらと冷や汗がにじんできた。“走る精密機械〝とも呼ばれたさすがのレース巧者の生沢も、この時点でもうなす術(すべ)がなかった。

24週目。残りあと6週。3万5千人の観衆の前でついに信じられないことが起こった。耳をつんざく大歓声の中で東次郎のヨタハチがついに生沢のエスハチを抜き去ってトップに立ったのだ。裕も横に立っていた雅晴も雨でずぶ濡れになりながらも、お互いに我をわすれて大声で叫んでいた。

「トージ!トージ!」と、サーキットに響き渡る歓声はいつの間にか3万5千人全員の大合唱に変わっていた。

東次郎はその後もペースをまったく落とすことなく、2位の生沢徹になんと19秒もの大差をつけて優勝してしまった。船橋サーキットはまさに興奮の坩堝(るつぼ)と化していた。裕と雅晴を筆頭にレースをみていた3万5千の大観衆はすっかりこの男の虜(とりこ)となっていた。

レース後の表彰式が行われた。表彰台の真ん中の最上段に立ったのは、度が強いメガネをかけ、ぼさぼさ頭の丸顔で、レーシング・スーツを膝下までまくりあげ、黒いすね毛を丸出しにした、小柄な若い男であった。どうみても一流のレーサーには見えなかった。どちらかというと教室の片隅でいつも青白い顔をして勉強ばかりしているガリ勉のように見えた。その顔は丸顔の童顔でまだ10代にしか見えなかった。但し、分厚いレンズの奥に小鳥が縮みあがるような鷹のように鋭い眼が潜んでいることに気がつく者はほとんどいなかった。

東次郎の左隣の2位にはスラッと背の高い眩いばかりのイケメンの生沢徹。右隣りの3位には、いぶし銀の渋い職人、田中健ニ郎がいた。真ん中の東次郎は満面の笑みを浮かべ、手を振り上げて大観衆の声援にこたえていた。足元を見るとゴム草履であった。すかさず野次が飛んだ。

「東次郎、賞金もらったら靴を買え!」

東次郎はその野次の主の方向に右手を指して上下に振り、

「にこっ」

と、さわやかに笑い返した。のちに伝説として語り継がれるこのレースを目の当たりにした風戸裕と中野雅晴は、この時から本格的にモータースポーツの世界にのめり込んで行くこととなる。

そして伝説のレーサー浮谷東次郎はこのレースの約1カ月後、鈴鹿サーキットでの練習走行中の事故により、二度と帰らぬ人となった。享年23歳であった。

第1章 完