風になったアブラハム プロローグその2

プロローグ2 洗礼名・アブラハム昭和24年 6月

千葉県茂原市郊外の小さなカソリック教会。そこで今まさに

「幼児洗礼」の儀式が厳かに行われていた。

大きな、少し色褪せた金色の十字架が掲げられた祭壇の前に、

黒いマントを肩にかけた一人の老神父が立っていた。その前

に赤ん坊を抱いた一組の中年の夫婦が首(こうべ)を垂れて

静かに待っていた。

3月に生まれたばかりのその男の子は、洗礼ドレスと呼ばれる

白いガウンにくるまれていた。泣き声をあげる事もなく静か

にしていた。真っ赤な唇の端から少しよだれ泡を垂らし、

たまに小さなあくびをしていた。

「汝、父と子と聖霊の御名(みな)によって、洗礼

(パプテスマ)を授ける」

神父は母親に抱かれた赤ん坊の頭に聖水を少しずつ注いで

いった。赤ん坊は手で「いや、いや」の仕草をしながらも

静かにしていた。

夫婦の後ろには親族と思われる15人程の男女が、中央の

親子三人に視線を注いでいた。右端に立っていた女の子

が隣の男の子の手をしっかりと握りしめていた。二人

とも綺麗な黒の子供礼服を着ていた。その赤ん坊の姉の

5歳の淑子(としこ)と兄の健士(たけし)3歳だった。

健士は時々退屈そうにして体を揺らしたが、姉の淑子が

その都度優しくあやしていた。

「健ちゃん、お願いだから大人しくしてね。」淑子が

健士の耳もとで囁いた。

「お姉ちゃん、もう飽きちゃったよ。早くお家(うち

)に帰りたいよ」健士は姉を見上げ唇を尖らせた。

「風戸裕(かざと ひろし)、汝に洗礼名・アブラハム

を授ける」神父が額に手をかざして言った。

その時、高い天窓のステンドガラスを通して初夏の強い

日差しがサッと赤ん坊の顔を照らした。まるで神が祝福

しているようだった。生後三カ月のアブラハムは一瞬

まぶしそうな表情を浮かべ、顔を横にそむけた。

プロローグ2 完