風になったアブラハム  プロローグその1

風になったアブラハム

森 可南(もり かなん)

これは実在のF2レーサーでもう少しで日本人初のF1レーサーに

なるだろうといわれ、25歳の若さでサーキットに散った風戸裕

(かざとひろし)と同じく若くして死んだ裕の親友でありまた

ライバルであった中野雅晴を縦糸の軸にモチーフにした娯楽

小説であり、あくまでも作者のフイクションです。

昭和の時代にこんな劇的で短い人生を送った青年たちが

いたことを、今の令和の若者たちにも知って欲しいと思い

ます。

 

森 可南(もり かなん)

正体不明、年齢不詳、幻の覆面作家。

在校生か、卒業生か、はたまた塾長か?

 

プロローグ1 由美子の巡礼・昭和49年 11月

イタリア,モンツァ森林国立公園, 首都ミラノから北東に15kmの

ところにある あと少し北に行けばそこはもうスイス という自然

美豊かな美しい公園である。

11月初頭のモンツァはすでに冬の気配を色濃くあたりに漂わせて

いた。夏にはむせかえるほど強い緑の香を放つヨーロッパブナや

カエデ、ナナカマド、カラマツなどのヨーロッパを代表する樹木の

枝葉はほとんどがすでに鮮やかな赤や黄色に染まっていた。ところ

どころ穏やかな日が差すあたり一面には灰褐色の落葉がうず高く

敷き詰められていた。

この広大な公園の中にヨーロッパで最も古く格式のあるモンツァ・

サーキット場がある。六月から八月にかけての夏のレースシーズン

には世界中から熱狂的ファンで溢れかえるが、今は公園を散策する

人影もまばらで、大きな静寂に包まれていた。ただ昔からの森の住人

である野鳥と栗鼠たちだけが大自然の恵みを謳歌していた。

昼下りの木漏れ日の中、一台のミラノナンバーのタクシーが公園の

入口に滑り込んできた。中年の見事な鷲鼻の運転手がハンドルを握り

、隣の助手席に若い東洋人らしき女性が一人乗っていた。

年の頃は二十代半ばくらいで、小リスのような愛くるしい顔をしていた。

赤いモンクレーのダウンジャケットを膝に乗せ、厚手の桜色の

カーディガンをはおっていた。胸には紺色のタツノオトシゴのロゴ・

マークの刺繍が縫ってある。カーディガンの下にはオフホワイトの

ブラウスがのぞいており、細身のブルージーンズとトッズの薄茶の

ローファーを履いていた。プラダの黒のポーチバッグはダウンの上に

さりげなく置かれていた。足元に大きな花束が一つ置かれていた。

茶褐色に近い黒髪は肩の上あたりまで伸び、ゆるやかなウエーブを

描いていた。鼻の上から頬にかけうっすらと細やかなそばかすが

散っており、それがより一層幼さと愛らしさを印象づけていた。

口元の淡い桜色のルージュ以外化粧気はなかった。柔和な顔立ち

だがその鳶色がかった瞳にはあたりを払うような神秘的で凛(りん)

とした深さが感じられた。

「フェルミ・クイ(ここで止めて下さい)」

「シー・シニョリーナ。グラッツエ。グラッツエ・ミレ(どうも有難う

ございます。お嬢さん)」、

何年も使い込んで色褪せた緑のニット帽をかぶった運転手は満面の笑み

を浮かべ、料金メーターの数字を人差し指でさした。

当時のイタリアのタクシー運転手で英語が分かる者はまずいなかった。

日本人なら誰もが分かる「オーケー」や「ストップ」でさえ彼らには

通じなかった。だからイタリア語が話せない日本人は最低限、

「ここで止まれ――フェルミ・クイ」

「右――デストラ」

「左――シニストラ」

の三つのイタリア語を知らないと一人でタクシーにさえ乗れなかった。

メーターは2万5000リラだった。バッグから1万リラ札を3枚

だし運転手に渡した、(お釣りはいらない)と、手の平を相手に

向け左右に小さく振った。理解した運転手は笑みを浮かべ、わざ

わざ車から降りて彼女の為にドアを開けてくれた。

「グラッツエ」

ドアから冷たい風が一瞬滑り込んだ。花束を大事そうに取り上げて、

「チャオ・チャオ(さようなら)」

と、お互いに手を振り別れを交わした。

少し歩いて振り返るとニット帽を禿げた頭の上で大きく振り運転手が

「グラッツエ!」を連呼していた。煙草と赤ワインのせいだろう、

犬歯が一本欠けた前歯は赤茶色に染まって見えた。

少しはにかんで右手を胸の前で小さく振った。やがて車は大量の

白煙を巻き散らし来た道を急いで戻って行った。大自然の静寂さ

が静かにまた背後から忍び寄ってきた。

木立の上からときおり聞こえるメルロ(くろうたどり)の囀

(さえず)りがとても耳に軽やかだ。ふと見上げると小高い枝の

上でドングリを抱えた灰色の栗鼠が一匹、こちらをじっと見ていた。

尾がふさふさでとても長く体長は20センチ程だった。

「こんにちは」

日本語でニコっと笑いかけた。頬を木の実でまん丸にした栗鼠は、

「チュッチュッ」

と鋭く鳴いて横にすばやく走り去っていった。

リスが消えた小枝をしばらく見つめてから、また枯葉の上を

「サクッ、サクッ」と小気味良い音をたて緩(ゆる)やかな長い

坂道を歩き出した。イタリアは日本に比べ、四季を通じて湿気が

かなり少ない。だから晴れの日が少し続くと落ち葉はすぐに

カサカサに乾いてしまう。小気味良い音が出る落ち葉の絨毯の上

を少女みたいに高く飛び跳ねてみた。

「チュッチュッチュッ」

いつのまにかまた灰色栗鼠が別の枝の上からこちらを見ていた。

「あら、また見てたの? いやーねえー」

笑うと小さなエクボが両頬に浮かんだ。しばらくして坂の途中で

また立ち止まり、両手を上に大きく伸ばし深呼吸をした。清冽

(せいれつ)な冷気が胸一杯に広がった。

「あー、気持ちいい!」

森を抜けるとようやくレース場が見渡せる小高い丘の上に着いた。

以前、何回か来た事がある所だ。

「裕(ひろし)さん、会いに来ました」

小さく口の中で呟きながら、枯れた芝生の上に濃い紫色の薔薇

(ブルームーン)と白い霞草(かすみそう)の花束を静かに置いた。

瞳を閉じ顎を少し下げ、胸の前で小さく十字を切った。そして

両手を胸の前で握りしばらく佇んでいた。再び開いたその長い

睫毛はふと潤んで見えた。

いつしか彼女の脳裏には、ここモンツァ・サーキットを矢の

ように疾走していた裕のF2マシンの耳をつんざく落雷の

ようなエンジン音が大きく鳴り響いていた。

エピローグ その1 完

エピローグ その2 に続く